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「義兄との思い出」 芦澤明子

Read in English 芦沢明子、義妹 撮影監督   57年前、<世界の頭脳>といわれている昭七さんとの結婚が決まったとき明治生まれの父は喜びのあまり知人や近所の人に自慢しまくり、母は緊張しまくっていました。お会いしてみるととてもリベラルで思いやりのある方で芦澤家の親戚の事までいろいろきずかってくださいました.冗談好きの姉<幸子>と母の終わりのないようなだらだら話を何時もニコニコして聞いておられました。特に母とは琴線があったのでしょうか晩年の母の事を大切にしてくださいました。 私は、映画の撮影関係の仕事を生業にしておりますが、ある時昭七さんが、<明子さんの仕事もぼくの仕事も美をもとめるということでは、同じなんですよ>と、ありがたくも、もったいないようなことを言ってくださいました。今にしてみればその言葉は、私にとって何よりの励みとなっております。 昭七さんはこれからやりたい事が山ほどあったことでしょう。手術後わざわざ渋谷の東急本店に一人で行かれ素敵な帽子を買ってこられました.私は後に、渋谷駅からその道をたどりながら昭七さんのそんな思いを感じました.見果てぬゆめとなりましたが、そんな思いや夢を基金という形でリベラルに若い人に手渡すことができたら、昭七さんもどんなにお喜びかと思います.基金の立ち上げやこの会の企画運営などに多くの先生方や若い研究者の方々にご尽力していただいた事をこころから感謝申し上げます。

「献杯の音頭」 内藤昇

Read in English 内藤 昇、(昭七の中学校同級生) 名誉教授 信州大学(長野市)   お招き頂きました「小林昭七先生を偲ぶ会」は,数学界及び関連学会の立派な先生方ばかりで,私のようなつまらない人間には場違いかなと思いながら、「疎開先の野沢中学校で昭七さんの同級生」という立場で参加させて頂きましたが,「献杯の音頭を」というご要請に戸惑って居ります内藤と申します。 昭七さんとご一緒させて頂いたのは2年9か月足らずでしたがある時,昭七さんが私に「直線定規とコンパスだけを使って角の3等分をやって見ろ」と言われました。私があれこれ試行錯誤して,次の日もむきになって苦闘していましたら昭七さん,ニヤニヤしながら「その問題は解けない事が証明されているんだ」と言われました。 昭七さんのご冥福を祈り,昭七さんを偲びながらご歓談頂くために献杯をお願いいたします。 「献杯!」

「小林昭七先生」 篠崎英理子

Read in English 篠崎英理子 高校の数学教師、横浜市   私が小林先生に初めてお目にかかったのは20年前、私が大学三年の時、先生が国際基督教大学(ICU)へ客員教授で来られた年でした。 私は以前から大学で数学を勉強したいと思っていましたので、ICUでは初め数学専攻でしたが、ICUで取った数学の科目のどれにも馴染めない感じをもっていました。 高校時代は数学の勉強にはいつも自信があり、学んでいる内容を理解していました。 当時三年生の秋学期を終え、私は幾何、代数、解析のいずれかを選ばねばなりませんでした。その時点では専攻分野として幾何学を考えてはいませんでした。私は専攻を化学に変えようかとも考えていたところでした。小林先生の講義は必須科目でしたので、受講することにしましたが、それが私の人生を丸っきり変えることになるとは想像もしてませんでした。かくして、数学専攻三年の時に小林教授にお会いする機会を与えてくれた神様に感謝することになりました。その年の第二学期(ICUは三学期制です)直後に先生はICUから去られることを私は知っておりましたので、幾何の勉強に専念し、解ける問題はすべて手がけ、先生のオフィスを毎日のように訪れました。 その学期末試験では、ICUに入学以来初めて、高校時代に経験したような成績を得ることが出来ました。小林先生が試験の答案を返される時、私に微分幾何を続ける気持があるかと訊ねられました。正直に申して、当時ICUには微分幾何を教える教授はおりませんでしたので、私が先生に伺いたかったのは一体どうやってこれから微分幾何を勉強できるかということでした。 暫くして、先生は田中真紀子先生(現在は理科大学教授)の下で微分幾何を勉強するようにとご親切に仰って下さいました。田中先生は当時、ICUの学生たちの解析演習を担当されていました。幸いなことには、当時田中先生は小林先生の(東大学生時代の)同僚であられた上智大学の長野先生のご指導の下で微分幾何専攻で勉強されておられました。更に小林先生は翌年私が提出しなければならぬ卒業論文の指導をしてくださるのみでなく、先生のご指導のもとで微分幾何の勉強を継続するように言って下さいました。 先生との勉強は殆ど、電子メールでする予定でしたが、私の4年生の年は、殆ど東京大学の評価のお仕事でおられましたので、本郷キャンパスで頻繁のお目にかかることが出来ました。バークレーに帰られる当日にもお会いしました。 私の論文に関して討議した後、上野駅までご一緒に歩き、成田行きの電車の中でも数学のデイスカッションを続け、空港で握手をしてお別れしました。 それから20年あまり、小林先生が学会、セミナー、大学評価、特別講義などで来日される度に、お会いしました。先生のお昼休みや、講義の合い間の休憩時間にお会いしました。小林先生のお陰で、東京や関西地区のにある大学や講演会場をあちこち訪問する機会に恵まれました。 先生との仕事の内容は、年が経つにつれ変わりました。4年生の時は共役接続に関するトピックを卒論のテーマとして選び、私がある定理を発見するのを手伝って下さり「共役接続と接続のモジュライ空間」と題する論文を、「東京大学数学誌」に提出して下さいました。 しかし私は大学院に進学せずに(1995年の日本では就職は大変厳しいものでした)国内の高校の数学教師として,フルタイムで働く事に決めて以来、研究を続けることは大変難しくなりました。 そしてある日、小林先生は上記のトピックを彼の大学院の学生に譲って構わないか、そして代わりに、先生のご著書「曲線と曲面の微分幾何」を英語に翻訳し、LaTexでタイプするのを手伝ってくれないだろうかと訊ねてくださいました。私が引き続き数学の分野で先生とご一緒に勉強を続ける機会を下さり、私が先生のお仕事を理解し翻訳できると信頼して下さったことに、私は大変感謝いたしました。 残念なことに先生とご一緒に翻訳を完成することが出来ませんでしたが、田中真紀子教授と一緒にこの翻訳の仕事を続けるつもりです。 最後になりますが、この偲ぶ会に参加させていただく機会を賜りました諸先生の皆様に御礼申し上げます。 何時もご親切に接してくださる田中真紀子先生、この会に私を招いてくださりこの特別の機会を下さいました慶応大学の前田先生のお二方には、格別御礼申し上げます。私は現役で活躍している数学者でもなく、小林先生のバークレーでの弟子でもありません。しかし、小林先生とのお付き合いを通し、数学を通じてお会いした皆様方からのご援助のお陰で、数学と言う学問は頭のみならず、心をも育てる素晴らしいものだと常々信じてまいりました。 これからも熱意をもって数学の分野でキャリアを続ける所存でおります。そして私の学生の中から、将来小林先生のような高名な数学者が現れる日が来ることを夢見ております。 ご静聴、真に有難うございました。 (翻訳文責小林久志)

「バークレー校代表」 ポール・ヴォイタ

Read in English ポール・ヴォイタ教授 カリフォルニア大学バークレー校数学科   まず最初に学科主任のアーサー・オーガス教授からの伝言をお伝えします。 「研究者、教育者そして指導者としての小林昭七は私共の学科の歴史上、最も尊敬され、影響力を持つ、有能なメンバーでありました。同僚と学生達は彼に対して賞賛のみならず、敬愛の念をも抱いていました。これは、大学院留学生を援助する目的で設立された小林記念基金に世界中の数学者から次々と寄せられる素晴らしい寄付にも反映されています。すでに150名を超える個人の方々から、一件100ドル未満から1万ドル迄の寄付が寄せられています。私どもの学科の生活に大きな変革をもたらすだけの金額が集まりつつあります。寛大な寄付をして下さった皆様に私共は心を打たれ、感謝いたしております。基金は、昭七氏の数学での永久の遺産に付加されるふさわしいものです。このような援助に対し私共の学科は深く感謝いたしております。」 私自身のコメント(小林教授の葬儀でのオーガス教授の弔辞の一部に基づくものですが)を付け加えたいと思います。私が最初バークレーに来たときは、数理科学研究所(MSRI)のメンバーとしてでありました。セルジュ・ラング教授は到着後間もない私を小林昭七教授に紹介してくれました。勿論彼の業績はずっと前から知っていました。一年後に私は数学科のミラー・ポストドク・フェローになり、小林昭七教授が私のファカルテイ・メンター(若手の教授を助言する指導者)になりました。しかし私の研究は殆ど数論でしたから、彼とは余り接触はありませんでした。 バークレーでは残念なことに、テイー(お茶の集まり)に出席しない教授が多いのですが(私も時々サボる有罪者なのですが)、小林教授は殆どいつも出席されていたので、私も数学科になじめるようになりました。バークレーに長年いると、時折「スペース戦争」という言葉を耳にします。これはハリウッドの映画のことではなく、大学の経営陣が数学科のオフィス・スペースのかなりの部分を取り上げようとした時代の話なのです。その当時(私がバークレーに来る以前ですが)、小林教授が学科主任でした。彼は大変巧妙な手口で、困難な時期を乗り越えられるよう数学科を導いたことを私も知っています。オーガス教授の言によれば「我々の学科が大学の経営陣からメモを受け取るたびに、昭七はそのメモと丁重だが完全に痛烈な反駁メモを掲示板に貼って公開した。学科のメンバーにとってはものすごく愉快な読み物であったが、経営陣にとってはそう面白いことではなかった。」その困難な時代に数学科はある程度のスペースを失ったが、昭七は我々の損失を10%までに留めました。 小林教授は星のように傑出した同僚であり数学者でした。彼が亡くなり大変寂しく思います。

「小林昭七先生を想う」 満渕俊樹教授

Read in English 満渕俊樹教授 大阪大学大学院理学研究科   小林先生と初めてお会いしましたのは、1972年に日本からBerkeleyの大学院に編入したときのことです。 Berkeley滞在中は、セミナーを開いていただいたり、ご自宅にある数学の本を貸していただいたり、数学的な相談に色々乗っていただいたり、何よりも数学者としての心構えを教えていただきました。そうした数学的なことのみならず、私的にも何度もご自宅によんでいただき、小林先生の奥様やご一家の方にも一方ならぬお世話になりました。 先生の指導のもとに1977年にBerkeleyでPh.D. をとり、西独のボンでの研究員生活を終えた後、日本に帰国しました。それ以後、先生のお目にかかるチャンスが少なかったのですが、1995年ころから日本の複素幾何のグループで毎年秋に菅平でシンポジウムを開き、海外の数学者を招いて講演や参加をお願いするようになりました。(このシンポジウムは今年で第19回目を数えますが、かって菅平に来ていただいた方の中にはY.-T. Siu 氏や C. LeBrun 氏を初めとして、幾人もの著名な方がおられます。)なかでも小林先生はこのシンポジウムにほぼ毎年欠かさず参加していただきました。このシンポジウムの講演はすべて英語で行われ、それを通じて我々が小林先生から教わったことも多々ありました。ちなみに、記念シンポジウムのホームページに掲げられている写真は、菅平で小林先生が講演されたのを板東さんが写真にとったもので、小生が最も好きな小林先生の写真のひとつです。 先生がお亡くなりになったということは厳然たる事実かもしれませんが、我々としては先生の数学に対する強い想い、そしてその志を継いで数学に真摯に取り組んでいきたいと思っています。 最後に、この小林先生記念シンポジウムの組織委員長をつとめられました落合卓四郎先生、および組織委員の方々、また偲ぶ会を組織して色々とお骨折りいただきました前田吉昭様、田中真紀子様、三上健太郎様、および世話人の方々、そしてこの偲ぶ会に御参列いただきました皆様方に小林先生の弟子の一人として心より感謝申し上げます。

「小林昭七教授を想う」 シン・トウン ヤウ

Read in English 丘 成桐 (シン・トウン ヤウ)教授 ハーバード大学   この小林先生記念会議に私を招待して下さった落合教授に感謝いたします。 昨年、小林教授が亡くなられたを知った時は大変驚きました。先生はまだお若くエネルギーに溢れておられると思っていました。東京からバークレーに向かうご旅行中に機内で安らかに亡くなられた旨をH. Wu教授から聞きました。即座に私はバークレーで学生時代初めて小林先生にお会いしたときの笑顔を思い想い起しました。私は小林先生と落合先生が担当された微分幾何のセミナーから多くのことを学びました、今回の日本訪問中に落合先生から知り得た情報で感動した事が一つあります。私がバークレーの大学院応募した年は数学科への入学選考委員会の委員長は小林先生であったそうです。ドナルド・サラソン教授とS.S. チャーン教授が私のバークレーへの入学許可に大きく関与されたことは、長年知っておりましたが、小林教授も大変重要な役割を持たれていたことは知りせんでした。そして小林先生はこのことを生涯私には秘密にしておられました。落合先生によりますと、小林先生は私の応募に関し、バークレーは出来得る最善の努力をすべきだと強力に推して下さったそうです。私に大変高名なIBMフェローシップを下さったのですから正にその通りでした。当時米国人の学生がもらったフェローシップは通常2,400ドル位でしたが、私はそれを上回る3,000ドルを頂きました。小林先生は私をバークレーに入学させたことを、ご自身の大きな手柄の一つだと落合先生に自慢されたとの事です。先生のご親切さに心より感謝致しております。 私がバークレーに応募したのは香港で学部三年の時で、香港中国大学からまだ学士号は得ていませんでした。香港のサラフ教授の勧めで、バークレーの大学院のみに応募しました。バークレーへの入学は私の人生、数学者としてのキャリアに決定的なものでした。このフェローシップは私にとっても、私の家族にとっても大変有難いものでした。私の父はずっと前に亡くなり、私の家は大変貧乏でした。頂いたIBMフェローシップの半分を家に仕送りすることにより、私の家族を経済的に助けることができました。更に重要なことは、バークレーで現代数学を勉強したことが、その後の私の数学研究の基礎になったことです。 香港にいた頃は関数解析に興味を持っていました。バークレーでいくつかの科目を取ったり、聴講してからは幾何学の美しさに気づきました。小林先生と落合先生が担当されたセミナーは特に助けになりました。セミナーを理解するためにヒルツェブルク著「代数幾何学のおけるトポロジー的手法」を勉強するために多くの時間を費やしました。これは私にとって重要な転機点でした。チャーン教授に指導教授になって頂くようお願いしておりましたが、先生は私が大学院一年の年はサバテイカル休暇をとっておられました。ですから、幾何とトポロジーの基礎を学んだのは小林教授の講義や、ブレーン・ローソンとエド・スパニエーの講義からでした。 1970年の春、小林教授は彼の有名な著書「双曲多様体」を書き上げたばかりでした。出版される前にその原稿一式を私に下さったのには大変感激致しました。大変すっきりと書かれた本で、あの重要なシュワルツ=ピック補助定理を私はこの本から学びました。この補助定理に関してあれこれと思いを巡らせ、実数上で類似した結果を勾配評価の形として見出しました。この手法は偏微分方程式の分野における私の殆どの仕事に大きな影響を与えました。リ=ヤウの不等式はこの評価の放物版を理解することから得られました。カラビ予想における私の2階の評価もこの補助定理から示唆されたものです。私は小林教授と彼の学生アイゼンマンが提唱した内在的測度を一般化する努力をし、最後には、それを双有理不変測度に拡張することができました。 1970年から1971年にかけて、小林・落合両教授は、正の双断面局率を持つコンパクトなケーラー多様体は複素投影空間と双正則同値な関係にあるというフランケル予想を解明しようとしていました。二つの重要な手法がつかわれました。一つはビショップとゴールドバーグの消滅定理であり、2次のベッチ数は1であることを証明するのに使われました。もう一つは最低次の有理曲線が存在するということであり、これはヒルツェブルクと小平の仕事に遡ります。小林-落合がリーマン-ロッホ公式と消滅定理を応用したことに、私は深い感銘を覚えました。1978年私はフランケル予想と小林-落合のこれらのアイデアをシウ氏に伝え、安定的極小曲面の為の第2変分公式を取り扱う新しい方法を開拓する研究を彼と一緒に始めました。 そしてサックス-ウーレンベックによって開拓された極小球面の理論を応用することにより、最低次の有理曲線の存在を証明しました。我々はフランケル予想を証明することに成功しましたが、森氏は、より一般的なハーツホーン予想を証明しました。極小曲面を使って最小次の有理曲線を作るというこのアイデアはグロモフによってシンプレクテイック幾何における擬正則曲線を開拓するのに使われました。 1982年に私がフィールズ賞を受賞した後、私の仕事を日本語で紹介する記事をご親切にも小林先生が書いて下さったことも付け加えたいと思います。先生と私は、チャーン数の不等式に関するボゴモロフの仕事を知って以来、幾何学における多くのアイデア、特に束の安定性に関するアイデア、を共有致しました。 数学でのお付き合いのみならず、小林先生は私を学生として、友人として大変親切に接して下さいました。1978年にヘルシンキでの国際数学者会議に出席する前にボンを訪問した際には、先生のお宅に短期間滞在させていただきました。 その頃小林先生はバークレーの学科主任をされておりました。彼のリーダーシップは、同僚達により「傑出した」そして「英雄的」であったと語られています。彼の笑顔と外交的手腕によって、彼は数学科の望みの多くを理学部長から手に入れました。世界中からの数学科への訪問者、特にキャリアを始めたばかりの若い人たちに対する彼の暖かい持成しは遍く知られています。彼の数学と数学者コミューニテイへの貢献を、私たちはこれからもずーと忘れないでしょう。 (翻訳文責・小林久志)

「出版編集者からの思い出」 細木周治

Read in English 細木周治 裳華房編集部 (2013年2月退職)   私が、裳華房(ショウカボウ;出版社)の編集者として、小林昭七先生のお手伝いをさせていただきましたのは36年程前(1977年;入社5年目)からになります。担当した第1冊目は、幾何を専門とされている方であれば必ずご存知な『曲線と曲面の微分幾何』です(小林先生をご推薦されたのは矢野健太郎先生です)。この本は、数学の専門課程向き書籍としては大いに売れ、現在も高い評価を得ています(1995年には改訂版が刊行されました)。私は数学を専門としていなかったこともあり、当時、なぜ売れるのかが理解できなかったことを憶えています(この件については、読みやすい文章を書く方として、後で触れることになります)。当時はメールがない時代(航空書簡のみ)ですから、「校正」のやり取りだけでは、小林先生の人柄や業績を理解するチャンスはありませんでした(東京近郊の先生であれば、直接お会いすることで、お付き合いの世界が次々に広がってゆきます)。それでも、改訂版を含めて計6冊もの編集のお手伝いをさせていただきましたので、小林先生とのドラマはそれなりにあります。今日は3つのトピックについてお話をさせていただきます。 1999年に『円の数学』が刊行されました。すでにお気づきの方もおられるかも知れませんが、序文の2重構造、すなわち序文の中に「はじめに」という文章が含まれています。『円の数学』の推敲から刊行までの期間は、当時の文化庁長官により「人生で2次方程式が役に立ったことがない」旨の発言と共に数学教育内容の削減がなされた時期に一致しています。常にニコニコされていて怒る姿を見せない小林先生が、珍しく強い口調でこのことに触れたのです(裳華房のホームページには当書籍の序文PDFが掲載されています)。http://www.shokabo.co.jp/mybooks/ISBN978-4-7853-1516-0.htm 推敲時には予定していなかったその当時の思いを公にしたかったのか、「はじめに」は序章(本文)として扱われるべきものだったのに編集部が間違ってしまったのか、今となっては確かめることはできません。もしかしたら、その辺りの実情は慶応義塾大学の前田吉昭先生がご存知であるかもしれません(偲ぶ会の席で、前田先生から「小林先生は、怒るときははっきりと怒られる方である」旨の補足がありました)。 2000年には『微分積分読本』を刊行していただくことになりました。多くの場合、教科書としての性格を有するように構成していただくことをお願いしますが、在米の(日本の教育環境とは異なる大学の)先生ですから、自由に書いていただくことといたしました。題材が微積分であったこともあり、このころには、小林先生の文体の読みやすさの理由を、私なりに理解することができるようになってきました。数学の本では、定理などの記述ルールと初学者の思考順序とが異なっている場合を多く目にします。しかし、小林先生の場合は、数学を専門としてない(数学的思考の訓練を十分に受けていない)読み手に違和感を与えない形で説明されているのです。「大まかな考え方」の次に「数学的なルールに沿ったまとめ」がきちんと分けられていることによるものと思います。 『微分積分読本』においても、読者(の一人)の立場から、「このように読んで(理解して)良いのかどうか」の質問を多くさせていただきました。このとき、先生から「何が判らないのかが判った」という言葉とともに、適切な修正を多く施していただいたことが、書籍の評価につながったものと思っています。小林先生から頂いた「何が判らないのかが判った」のお言葉は、教育にかかわる書籍の編集者にとっての勲章と思っています。「何が判らないのかが判った」に対し、真逆の言葉は「何が判らないのかが判らない」となります。「小林先生を偲ぶ会」のご出席者の多く方は教える側に属されています。数学者は、答えに至る道筋は幾通りもあると説明しますが、読み手(学生)にとっても、間違える方向は幾通りもあります。ぜひとも、そのことを頭の片隅に置いて、小林先生のように、受講者の方々に接していただければと思っています。 小林先生のすごさは、仕事のスピードにもあります。そのことは、『微分積分読本』の続編として、当初予定されていなかった『続 微分積分読本』が翌年の2001年に刊行されたことでも判ります。事実、小林先生は慶応義塾大学病院で血管形成手術(バイパス手術ではなっかたと思います)を受けられていますが、私は、校正や編集上の打ち合わせのために病院にまで押しかけたことがあります(決して無理強いしたわけではありません)。そのとき、小林先生は「私は、原稿を書いたりすることが大好きで、時間が余ってしまう入院時にこのような仕事をできることが楽しいのです」と述べられています。しかし、医者や看護師が行き交う中(病室ではありません)での打ち合わせです。第三者の人からは、私が病院まで押しかけて病人いじめをしている非人情者と見えたかもしれません。 小林先生のエピソードと人柄を、一編集者から述べさせていただきました。小林先生のご冥福をお祈りいたします。

「歓迎の挨拶」 坪井俊

Read in English 坪井俊 教授 東京大学大学院数理科学研究科長   ご紹介ありがとうございます。坪井俊と申します。 東京大学大学院数理科学研究科長として、小林昭七先生を偲ぶ会の最初にご挨拶申し上げます。 まず、小林昭七先生記念シンポジウムでご講演いただいた皆様とご出席いただいた皆様に感謝いたします。皆様のご参加のおかげでシンポジウムは盛会に終わり、非常に有意義なシンポジウムとして記憶に残るものになったと存じます。 記念シンポジウムのご挨拶でも申し上げたことですが、小林昭七先生は東京大学理学部数学科を卒業された私どもの同窓生です。大学院に進まれて、フランスそしてアメリカ合衆国に行かれ、1962年にバークレーに落ち着かれました。その後ずっと、数学、特に幾何学を指導してこられました。小林先生は主に外国で活躍されたわけですが、日本の数学コミュニティーに多大な貢献をされました。日本人の数学者が、ベテランの方も、若手も、バークレーを訪れましたが、いつでも小林昭七先生と先生のご家族に温かく迎え入れていただきました。先生はしばしば日本に来られ、日本の多くの大学を訪ねられて講演をされ、私たちに良い数学とはどういうものかを示して下さいました。また、日本語で多くの本を書かれ、多くの人々を数学の世界へいざなって下さいました。日本の学生や若い研究者に世界的な数学者になるためにはどうすべきかを示してくださいました。小林先生がされたこれらすべてのことを考え、我々は先生への感謝の気持ちで一杯です。 記念シンポジウムのご挨拶のときに、数理科学研究科へ小林昭七先生が重要な貢献をされたこととして、1994年の外部評価のことをお話ししました。数理科学研究科は、1992年に理学部と教養学部のそれぞれにあった数学教室を合併する形で設立されました。1994年にはこの数理科学研究科棟は建築中でした。このコモンルームは1992年に数理科学研究科棟の建設を考え始めた時からフロアプランにあったものです。プリンストンやバークレーや外国の他の数学教室に滞在したことのある数学教室のメンバーは、みんなが数学のアイデアを交換し合うコモンルームが数学コミュニティーには必要であることを知っていました。しかし、その当時は、教室でも実験室でもないコモンルームが必要であることは、事務当局には理解できないことでした。私たちはコモンルームが必要であるという証拠を見せなければいけなかったのです。小林昭七先生はこの時も我々を助けてくださいました。ある意味で、このコモンルームから小林昭七先生が残された数学の精神が感じられると思います。 この小林昭七先生を偲ぶ会には遠路はるばるご家族の方々、ご友人の方々が来てくださっています。誠にありがとうございます。おかげさまでこの夕べは、小林昭七先生に深く感謝しながら、数学についてだけではなく、人生の様々な出来事について話ができることになりました。この偲ぶ会では、皆様がコモンルームの雰囲気を満喫されることを祈っております。 ご清聴ありがとうございました。

「小林昭七さんを偲んで 」黒田成俊

Read in English 「小林昭七さんを偲んで」 黒田成俊 東京大学及び学習院大学名誉教授   ご紹介頂きました黒田成俊でございます。小林さんを偲んで,一言ご挨拶させて頂きます。 皆様,小林さんとは研究上の縁は薄そうな私が何故,と思われるでしょう。実は,1962年の秋に小林さんがVancouverからBerkeleyに赴任されましたとき,たまたま私がBerkeleyに客員でおりまして,そのとき始めて小林さんとお目にかかりました。それ以来,深いお付き合いとは言えませんが長年にわたって,小林さんをひそかに敬愛してきたものでございます。 私は小林さんと同じ1932年(昭和7年)の生まれですが,小林さんは早生まれ,私は6月のおそ生まれです。当時の学制の切り替えの事情で,年齢1年の差が学年2年の差になったケースです。それに,私が物理学科の学生であったこともあり,実はBerkeleyでお会いするまで,小林さんのお名前も知りませんでした。それがお会いしてからは,数学のコンタクトは少なかったのですが,どなたにも明白な小林さんの飾らないお人柄に魅せられて,ずっと敬愛してまいりました。片思いだったかもしれませんが。 小林さんがいらした年には,私の恩師である加藤敏夫先生も,東京大学の物理の教授からUC Berkeleyの数学の教授としてご着任になり、急に賑やかになりました。それから私が帰国するまでの1年の間,私的な面でも加藤先生,小林さんにご家族もご一緒で(といってもこちらは一人ものですが)色々とお世話になりました。お嬢様方も,その頃はスンちゃん,メイちゃんとお呼びしていたのを思い出します。 その後,1970年のNice Congress, それは広中さんがFields賞を受賞されたCongressですが,そのときは加藤先生がPlenary Speaker, 小林さん(と私)はSession speakerでした。加藤先生,小林さんはご家族でいらしており,Sessionの外でも,遠足に行ったりしたのがよき思い出となって残っております。最近そのときの写真をファイルにしてみたのですが,遠足の写真には何故か小林さんだけが写っておられません。遠足に来られなかったか,来られても数学仲間とdiscussionをしておられたのでしょうか。コングレスのProceedingsの論文題名が,フランス語なのですがPseudo-distances intrinseques sur espaces complexes …

「開会の挨拶」 落合卓四郎

Read in English 落合卓四郎 組織委員会代表、東京大学名誉教授   皆さまこんばんは! 小林先生をしのぶ会に御参集賜り、誠にありがとうございます。 組織委員会を代表して一言ご挨拶申し上げます。 ここに御集りの一人ひとりが、それぞれ小林先生との忘れがたい思い出をお持ちになり、先生の突然の訃報に信じられない思いをなされたことと思います。 偉大な数学的業績はもちろん、数学に対する真摯な情熱、誰をも引き付ける素晴らしい笑顔と包容力、同僚に対しても学生に対しても分け隔てない胸襟をひらいたお付き合い・・・、私たちにとって先生のすべてが数学者・教育者かくあるべしという理想でした。 今日も、この席のどこかで、先生が微笑みながら見守ってくださっているように思えてなりません。 本日は、多くの方が先生とともにお世話になりました奥様の幸子さまをはじめ、上のお嬢様、弟様をはじめ御親族の方々にもお越しいただきました。 奥様、バークレーより遠路はるばるありがとうございました。 今夕は、先生と奥様達との楽しいかったお付き合いの思い出で盛り上がっていただければ幸いです。 終わりになりましたが、シンポジウムとしのぶ会を陰ながらしっかりサポートして下さいました坪井数理科学研究科長とスタッフの皆さまに心より感謝を申し上げ、ご挨拶に代えます。 ありがとうございます。