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「お礼のご挨拶」 小林幸子

Read in English 小林幸子、昭七の妻   私の夫、小林昭七は1932年(昭和7年)1月4日、未熟児として生まれたそうです。アメリカで言うpremature baby 愛称 preemieです。お医者様は「この児は3ヶ月もてば人並みに育つでしょう」と言ったそうです。昭七の若い両親は初めての子である昭七を一生懸命育てたそうです。湯たんぽを入れ過ぎて、一月なのに赤ちゃんに汗疹が出来たと言う失敗もあったとか。 その児が無事育って、第二次世界大戦中疎開先の中学校で素晴らしい先生に出会い、東京大学でも優れた先生方から教えを受け、更に数知れぬ程の、良い同僚、友人達に恵まれ、好きな数学一筋に人生を送り、80歳まで長生き出来ました。彼は好きな事だけして人生を了えました。何と幸せなことでしょう。 これも一重に彼を囲んで下さった先生方、同僚、お友達、知人のお陰だと思います。彼に代わり生前の御交友厚く御礼申し上げます。

「小林昭七教授と数学月間」 片瀬豊

Read in English 片瀬 豊 SGK(数学月間の会)代表   米国カリフォルニア大学バークレー校の小林昭七・数学名誉教授が昨2012年8月に昇天されました。心からのご冥福をお祈り致します。 「君は逝く 世界に虹を 渡しつつ」 2003年、米国に数学月間(Mathematics Awareness Month /MAM)というのがあると小林教授から紹介されました。山崎圭次郎教授らとウェブサイト(http://mathaware.org/about.mam.html)を調べたところ1986年に所謂レーガン宣言で始められ、社会の諸問題・各分野に対する数学の効用を強く意識して全国的に研究する様強力に進められて来ました。学生の数学力低下が強く意識されており、日本においても「ゆとり教育」が問題になっていました。そこで22/7がに近く22/8がeに近いところから7月22日~8月22日を数学月間とする様日本数学協会に提言し2005年に採択されるところとなりました(www.sugaku-bunka.org/数学月間の会 を参照)。 小林教授は世界各地を廻って特別講義やシンポジュウムをされており年に1回日本にも見えられたので数学月間に関する情報交換を続けて来た次第です。 米国MAMの目標は「数学の社会的理解と評価」を掲げており、日本では「数学と社会の懸け橋」を掲げて推進する事になって来ました。それぞれの大学が核になって数学月間行事を展開する様になっています。小林教授の遺志を継いで7/22~8/22数学月間行事を継続、拡大して日本の社会と数学界が益々発展する事を期待する次第です。 追記:米国における数学月間に関しては、小林昭七教授の随筆集「顔を失った数学者」(岩波書店、7月30日発行予定)の中の「数学サークル」を参照されたい。

「兄昭七を再発見」 小林久志

Read in English 小林久志、(昭七の弟) プリンストン大学名誉教授   落合先生、前田先生, 坪井先生その他の組織委員会の諸先生のご尽力により、22日からの四日間「小林昭七記念シンポジウム」を開催していただき、今夜は、このように、参加者百名を超える盛大な「小林昭七を偲ぶ会」を開催していただき心より御礼申し上げます。その上、私共小林、芦沢両家の親族を招待していただき大変恐縮に思います。親族を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。生前昭七が親しくお付き合いさせていただきました国内外の数学者の皆様にお目にかかる機会を頂き大変光栄に思います。兄の中学時代の同級生内藤昇先生には長野市から遥々お越しいただき、天国の兄も感激していることと思います。 さて昭七の一生を一ページにまとめますと次のようになります。 小林昭七 略暦 1932(昭和7) .1.4 山梨県甲府市生まれ 1953(昭和28) 東京大学数学科卒業 1953-1954 パリ大学・ストラスブルク大学留学 1956(昭和31) ワシントン大学にて博士号取得 1956-58 (昭和31-33) プリンストン高等研究所研究員 …

「指導教授としての小林昭七氏」 ゲアリ・ジャンセン

Read in English ゲアリ・ジャンセン セントルイスのワシントン大学数学科名誉教授 私にとって小林昭七教授は理想的な論文指導教官であり、メンター(よき助言者)でありました。彼は私のキャリアの数多くの段階で極めて重要な役割を演じてくれました。彼の助けや指導がなかったら、私は数学の教授には決してなれなかっただろうと申しても間違いないでしょう。以下私のストーリーを紹介します。 1964年10月に(博士号への)資格試験を終えてからも、私は1964-65年度の残りの時期を更にコースを取ることに時間を費し、さて次に何をしようかと思案してました。 当時の私には、「博士論文を書く」という事がどういう事なのか殆ど見当がつきませんでした。春学期の末に卒業する予定の友人が私に「君は何をしているのかね」と尋ね、私の返事に対し「それとは違う分野の数学を目指したらどうかな」と提言してくれました。そして彼は論文の指導教授をすぐ見つけるようにと私に強く勧めました。当時、指導教授を見つけるということは、私にとっても他の多くの学生にとっても非常に困難なステップでした。幸いにも、私は既に小林教授の表現論のコースを取っており、彼に実際に会って話してみようかなという印象を持っていました。私の指導教官になって下さいと頼むことに不安はありませんでした。その時は彼は即座には返答を下さらず、野水氏と共著で出版したばかりの「微分幾何の基礎、第一巻」を読んで夏を過ごしてみてはどうかと言われました。こうして私の生涯を通じての微分幾何への愛が始まったのです。 小林教授は私に、本を読むだけでなく週一度彼のオフィスに出向き、読んだ内容について話すようにせよと言われました。しかし、どうしたものか、私は、彼の意図する所は、私が彼に質問があるか、或いは気の利いたコメントが頭に浮かんだ時にだけ彼の所へ赴くけばよいのだろうと解釈しました。2週間も経たぬうちに小林教授はこの点での私の誤解をはっきりと指摘しました。それで私は本の第一ページから終わりまで懸命に読み始め、規則的に話に行くようになりました。我々の会話は決して長くはありませんでした。あれが彼の流儀だったのか、あるいは私が詳細な議論から知識を吸収するのが不得手である事を彼がすばやく見極めたのか、今でも定かでありません。しかし一番肝心なことは、その場その場の事情に応じて、私を時には優しく、時には強く突くことを、彼がよく心得ておられたことです。 秋学期の初めになって彼は私の指導教授になって下さることを承諾してくれました、しかし私はどんな問題に取り組みたいのか、研究をするということは何かということすら、丸っきり分かっていませんでした。その頃京都で開催されたコンファレンスの論文集の編集をされた彼とジェームス・イールスが収録した問題のリストを私に手渡し、この中から二つか三つ位、何か面白い問題があるだろうと示唆してくれました。一週間後、イールスとサンプソンが提唱した問題、即ち「単連結なコンパクトな、非負の曲率を持つリーマン空間にリッチ平行計量は存在し得るか?」を検討してみることに我々は同意しました。その学期中私は数々の論文を読みましが、全然進みませんでした。意を決して小林教授に自分は全然進歩してないし、実際どこから手をつけてこの問題を解いたらよいのか、全く見当がつかないと言いましたら、彼の返答は 「先ず4次元で等質の場合を検討してみたらどうかね」という単純なものでしたが、大いに役立ちました。このアイデアが一年もの間、自分で思いつかなかったとは、今思い出しても恥ずかしく思います。この助言に加え、4次元等質空間に関する石原の論文を読むよう指示して下さいました。かくして、やっとのことで、二三週間で内容を理解出来、更に自分の問題にも応用できるような論文に初めて出くわしたのです。 60年代半ばのバークレーの大学院は素晴らしい所でした。1967年秋学期の初めのミーテイングで、小林教授は静かな口調で、今年が私の最終学年だと言われました。「しかし、私には博士論文にまとめるだけの充分の結果がありません」と(確認をとるために)私は答えました。「そうだ」と彼は私に同意しました、しかし「これが君の最後の学年だよ」と再度言われた。私は彼の真意をやっと理解しました。それは私に強烈な動機を与えたメッセージでした。毎週の彼とのミーテイングで私は部分的な結果の寄せ集めを報告することを始めました。最初は壁にぶつかるような感じでしたが、猛攻撃で努力するにつれ、徐々に解明でき始めました。そして12月末までには、等質な4次元のアインシュタイン空間をすべて見つけることができました。 その一方で、小林教授は私の翌年の就職の件を課題として取り上げました。不思議なことに、この点について私は曖昧でした。それは明らかに、潜在意識下で、残りの人生もずっと大学院生でいたいという願望があったからです。彼が東部のある大学の何人かの数学者を紹介してくれましたので、私は彼らの学科に就職したいと申し出ましたが、先方から何の音沙汰もなく数週間が過ぎました。私はそのことを余り気にもしませんでしたが、ある日小林教授は私に「何か返事をもらったか?」と心配気に訊ねました。私の応答を聞き、そして私が他の何処にも応募していないことを知ると、彼は私の腕を取り、求人リストを掲載した記帳のある図書館に私を連れていきました。我々はその中から二つ三つ選び、彼は私にこれらの大学に応募の手紙を書き、推薦状を書いて下さる人をあと二人探すようにと言いました。もしあの時彼が私が確実に仕事探しをするように、あのように要領よく介入してくれなかったら、自分は一体どうなっていただろうかと考えると今でもぞっとします。3月初旬にカーネギー・メロン大学で面接を受け、 終身在職権(テニュア)へつながるポジションを提供され、それを受諾しました。学科主任の教授は、受諾する前に給料のついて尋ねるのが通例だと、私に教えてくれました。 6月、(小林教授の)「微分幾何の基礎、第二巻」の原稿のコピーを車のトランクに積み込み、私は家族を連れてピッツバーグヘ向かいました。この原稿を読んだ後で、新しい研究テーマを探そうと奮闘しました。小林教授とはこの年かなり定期的に交信しました。二三ヶ月経ったところで、学科の中で微分幾何に興味を持っているのは自分一人であり、孤独に感ずると彼に告げました。ポスト・ドク・フェローのポジションなら何処かにあるのではと彼に尋ねました。二三ヶ所に応募しましたが上手く行きませんでした。3月初め、セント・ルイスのワシントン大学から問い合わせがあり、ONR(海軍研究所)からの委託で「対称空間に関する大きな特別研究」に関連した一年のポスト・ドクのポジションに興味があれば、面接に来ないかと訊ねてきました。このポジションに関しは、小林教授が予め私の名前を先方に提案してくれていたのでした。ポスト・ドクの一年の終わりに、ワシントン大学は終身在職権へつながるポジションを提供してくれました。強力で活発な幾何の研究グループを持つこの学科は私にとって非常に魅力的でした。そのような訳で、私はセント・ルイスにとどまることになりました。 小林教授からの指導はこの後も更に続きました。 1971年の夏に私がバークレーで客員研究員のポジションを得るために努力して下さいました。そして、わたしが論文を書いている途中で行き詰まって嘆いたときに、「すべての場合を一度に説明しようとするな」と大変簡明な助言をくれました。またある時、会話中に、1963年に東北大学数学誌に発表した「正に締め付けられたケーラー多様体のトポロジー」と題する彼の論文を教えてくれました。この論文は、1970年代の私の論文の中で一番良く知られている論文「主ファイバー束の上でのアインシュタイン計量」の根底になっています。この論文は私が終身在職権(テニュア)を手に入れるのに多分役立ったと思います。彼のこのようなひそかな援助が何年も続いたのでした。現在私はワシントン大学の名誉教授であります。 このストーリーに関して私にとって明白なことは小林教授が、私のキャリア、そして私の人生に於いてさえ、その幾つかの決定的な時点で軌道からはずれないようにしてくれたことであります。バークレーで二三年毎にお互いに顔を交わしていたにも拘わらず、彼に対する私のこの認識を適切に伝えずに終わってしまったことを今になって遺憾に思っています。しかし彼の行為から判断して、彼が私の性格をよく知ってくれていたことは明からです。ですから、私に施して下さったたあらゆる行為での彼の親切さに私が感謝していたことは理解していて下さったと仮定するのは妥当であると思います。

「義兄との思い出」 芦澤明子

Read in English 芦沢明子、義妹 撮影監督   57年前、<世界の頭脳>といわれている昭七さんとの結婚が決まったとき明治生まれの父は喜びのあまり知人や近所の人に自慢しまくり、母は緊張しまくっていました。お会いしてみるととてもリベラルで思いやりのある方で芦澤家の親戚の事までいろいろきずかってくださいました.冗談好きの姉<幸子>と母の終わりのないようなだらだら話を何時もニコニコして聞いておられました。特に母とは琴線があったのでしょうか晩年の母の事を大切にしてくださいました。 私は、映画の撮影関係の仕事を生業にしておりますが、ある時昭七さんが、<明子さんの仕事もぼくの仕事も美をもとめるということでは、同じなんですよ>と、ありがたくも、もったいないようなことを言ってくださいました。今にしてみればその言葉は、私にとって何よりの励みとなっております。 昭七さんはこれからやりたい事が山ほどあったことでしょう。手術後わざわざ渋谷の東急本店に一人で行かれ素敵な帽子を買ってこられました.私は後に、渋谷駅からその道をたどりながら昭七さんのそんな思いを感じました.見果てぬゆめとなりましたが、そんな思いや夢を基金という形でリベラルに若い人に手渡すことができたら、昭七さんもどんなにお喜びかと思います.基金の立ち上げやこの会の企画運営などに多くの先生方や若い研究者の方々にご尽力していただいた事をこころから感謝申し上げます。

「献杯の音頭」 内藤昇

Read in English 内藤 昇、(昭七の中学校同級生) 名誉教授 信州大学(長野市)   お招き頂きました「小林昭七先生を偲ぶ会」は,数学界及び関連学会の立派な先生方ばかりで,私のようなつまらない人間には場違いかなと思いながら、「疎開先の野沢中学校で昭七さんの同級生」という立場で参加させて頂きましたが,「献杯の音頭を」というご要請に戸惑って居ります内藤と申します。 昭七さんとご一緒させて頂いたのは2年9か月足らずでしたがある時,昭七さんが私に「直線定規とコンパスだけを使って角の3等分をやって見ろ」と言われました。私があれこれ試行錯誤して,次の日もむきになって苦闘していましたら昭七さん,ニヤニヤしながら「その問題は解けない事が証明されているんだ」と言われました。 昭七さんのご冥福を祈り,昭七さんを偲びながらご歓談頂くために献杯をお願いいたします。 「献杯!」

「小林昭七先生」 篠崎英理子

Read in English 篠崎英理子 高校の数学教師、横浜市   私が小林先生に初めてお目にかかったのは20年前、私が大学三年の時、先生が国際基督教大学(ICU)へ客員教授で来られた年でした。 私は以前から大学で数学を勉強したいと思っていましたので、ICUでは初め数学専攻でしたが、ICUで取った数学の科目のどれにも馴染めない感じをもっていました。 高校時代は数学の勉強にはいつも自信があり、学んでいる内容を理解していました。 当時三年生の秋学期を終え、私は幾何、代数、解析のいずれかを選ばねばなりませんでした。その時点では専攻分野として幾何学を考えてはいませんでした。私は専攻を化学に変えようかとも考えていたところでした。小林先生の講義は必須科目でしたので、受講することにしましたが、それが私の人生を丸っきり変えることになるとは想像もしてませんでした。かくして、数学専攻三年の時に小林教授にお会いする機会を与えてくれた神様に感謝することになりました。その年の第二学期(ICUは三学期制です)直後に先生はICUから去られることを私は知っておりましたので、幾何の勉強に専念し、解ける問題はすべて手がけ、先生のオフィスを毎日のように訪れました。 その学期末試験では、ICUに入学以来初めて、高校時代に経験したような成績を得ることが出来ました。小林先生が試験の答案を返される時、私に微分幾何を続ける気持があるかと訊ねられました。正直に申して、当時ICUには微分幾何を教える教授はおりませんでしたので、私が先生に伺いたかったのは一体どうやってこれから微分幾何を勉強できるかということでした。 暫くして、先生は田中真紀子先生(現在は理科大学教授)の下で微分幾何を勉強するようにとご親切に仰って下さいました。田中先生は当時、ICUの学生たちの解析演習を担当されていました。幸いなことには、当時田中先生は小林先生の(東大学生時代の)同僚であられた上智大学の長野先生のご指導の下で微分幾何専攻で勉強されておられました。更に小林先生は翌年私が提出しなければならぬ卒業論文の指導をしてくださるのみでなく、先生のご指導のもとで微分幾何の勉強を継続するように言って下さいました。 先生との勉強は殆ど、電子メールでする予定でしたが、私の4年生の年は、殆ど東京大学の評価のお仕事でおられましたので、本郷キャンパスで頻繁のお目にかかることが出来ました。バークレーに帰られる当日にもお会いしました。 私の論文に関して討議した後、上野駅までご一緒に歩き、成田行きの電車の中でも数学のデイスカッションを続け、空港で握手をしてお別れしました。 それから20年あまり、小林先生が学会、セミナー、大学評価、特別講義などで来日される度に、お会いしました。先生のお昼休みや、講義の合い間の休憩時間にお会いしました。小林先生のお陰で、東京や関西地区のにある大学や講演会場をあちこち訪問する機会に恵まれました。 先生との仕事の内容は、年が経つにつれ変わりました。4年生の時は共役接続に関するトピックを卒論のテーマとして選び、私がある定理を発見するのを手伝って下さり「共役接続と接続のモジュライ空間」と題する論文を、「東京大学数学誌」に提出して下さいました。 しかし私は大学院に進学せずに(1995年の日本では就職は大変厳しいものでした)国内の高校の数学教師として,フルタイムで働く事に決めて以来、研究を続けることは大変難しくなりました。 そしてある日、小林先生は上記のトピックを彼の大学院の学生に譲って構わないか、そして代わりに、先生のご著書「曲線と曲面の微分幾何」を英語に翻訳し、LaTexでタイプするのを手伝ってくれないだろうかと訊ねてくださいました。私が引き続き数学の分野で先生とご一緒に勉強を続ける機会を下さり、私が先生のお仕事を理解し翻訳できると信頼して下さったことに、私は大変感謝いたしました。 残念なことに先生とご一緒に翻訳を完成することが出来ませんでしたが、田中真紀子教授と一緒にこの翻訳の仕事を続けるつもりです。 最後になりますが、この偲ぶ会に参加させていただく機会を賜りました諸先生の皆様に御礼申し上げます。 何時もご親切に接してくださる田中真紀子先生、この会に私を招いてくださりこの特別の機会を下さいました慶応大学の前田先生のお二方には、格別御礼申し上げます。私は現役で活躍している数学者でもなく、小林先生のバークレーでの弟子でもありません。しかし、小林先生とのお付き合いを通し、数学を通じてお会いした皆様方からのご援助のお陰で、数学と言う学問は頭のみならず、心をも育てる素晴らしいものだと常々信じてまいりました。 これからも熱意をもって数学の分野でキャリアを続ける所存でおります。そして私の学生の中から、将来小林先生のような高名な数学者が現れる日が来ることを夢見ております。 ご静聴、真に有難うございました。 (翻訳文責小林久志)

「バークレー校代表」 ポール・ヴォイタ

Read in English ポール・ヴォイタ教授 カリフォルニア大学バークレー校数学科   まず最初に学科主任のアーサー・オーガス教授からの伝言をお伝えします。 「研究者、教育者そして指導者としての小林昭七は私共の学科の歴史上、最も尊敬され、影響力を持つ、有能なメンバーでありました。同僚と学生達は彼に対して賞賛のみならず、敬愛の念をも抱いていました。これは、大学院留学生を援助する目的で設立された小林記念基金に世界中の数学者から次々と寄せられる素晴らしい寄付にも反映されています。すでに150名を超える個人の方々から、一件100ドル未満から1万ドル迄の寄付が寄せられています。私どもの学科の生活に大きな変革をもたらすだけの金額が集まりつつあります。寛大な寄付をして下さった皆様に私共は心を打たれ、感謝いたしております。基金は、昭七氏の数学での永久の遺産に付加されるふさわしいものです。このような援助に対し私共の学科は深く感謝いたしております。」 私自身のコメント(小林教授の葬儀でのオーガス教授の弔辞の一部に基づくものですが)を付け加えたいと思います。私が最初バークレーに来たときは、数理科学研究所(MSRI)のメンバーとしてでありました。セルジュ・ラング教授は到着後間もない私を小林昭七教授に紹介してくれました。勿論彼の業績はずっと前から知っていました。一年後に私は数学科のミラー・ポストドク・フェローになり、小林昭七教授が私のファカルテイ・メンター(若手の教授を助言する指導者)になりました。しかし私の研究は殆ど数論でしたから、彼とは余り接触はありませんでした。 バークレーでは残念なことに、テイー(お茶の集まり)に出席しない教授が多いのですが(私も時々サボる有罪者なのですが)、小林教授は殆どいつも出席されていたので、私も数学科になじめるようになりました。バークレーに長年いると、時折「スペース戦争」という言葉を耳にします。これはハリウッドの映画のことではなく、大学の経営陣が数学科のオフィス・スペースのかなりの部分を取り上げようとした時代の話なのです。その当時(私がバークレーに来る以前ですが)、小林教授が学科主任でした。彼は大変巧妙な手口で、困難な時期を乗り越えられるよう数学科を導いたことを私も知っています。オーガス教授の言によれば「我々の学科が大学の経営陣からメモを受け取るたびに、昭七はそのメモと丁重だが完全に痛烈な反駁メモを掲示板に貼って公開した。学科のメンバーにとってはものすごく愉快な読み物であったが、経営陣にとってはそう面白いことではなかった。」その困難な時代に数学科はある程度のスペースを失ったが、昭七は我々の損失を10%までに留めました。 小林教授は星のように傑出した同僚であり数学者でした。彼が亡くなり大変寂しく思います。

「小林昭七先生を想う」 満渕俊樹教授

Read in English 満渕俊樹教授 大阪大学大学院理学研究科   小林先生と初めてお会いしましたのは、1972年に日本からBerkeleyの大学院に編入したときのことです。 Berkeley滞在中は、セミナーを開いていただいたり、ご自宅にある数学の本を貸していただいたり、数学的な相談に色々乗っていただいたり、何よりも数学者としての心構えを教えていただきました。そうした数学的なことのみならず、私的にも何度もご自宅によんでいただき、小林先生の奥様やご一家の方にも一方ならぬお世話になりました。 先生の指導のもとに1977年にBerkeleyでPh.D. をとり、西独のボンでの研究員生活を終えた後、日本に帰国しました。それ以後、先生のお目にかかるチャンスが少なかったのですが、1995年ころから日本の複素幾何のグループで毎年秋に菅平でシンポジウムを開き、海外の数学者を招いて講演や参加をお願いするようになりました。(このシンポジウムは今年で第19回目を数えますが、かって菅平に来ていただいた方の中にはY.-T. Siu 氏や C. LeBrun 氏を初めとして、幾人もの著名な方がおられます。)なかでも小林先生はこのシンポジウムにほぼ毎年欠かさず参加していただきました。このシンポジウムの講演はすべて英語で行われ、それを通じて我々が小林先生から教わったことも多々ありました。ちなみに、記念シンポジウムのホームページに掲げられている写真は、菅平で小林先生が講演されたのを板東さんが写真にとったもので、小生が最も好きな小林先生の写真のひとつです。 先生がお亡くなりになったということは厳然たる事実かもしれませんが、我々としては先生の数学に対する強い想い、そしてその志を継いで数学に真摯に取り組んでいきたいと思っています。 最後に、この小林先生記念シンポジウムの組織委員長をつとめられました落合卓四郎先生、および組織委員の方々、また偲ぶ会を組織して色々とお骨折りいただきました前田吉昭様、田中真紀子様、三上健太郎様、および世話人の方々、そしてこの偲ぶ会に御参列いただきました皆様方に小林先生の弟子の一人として心より感謝申し上げます。

「小林昭七教授を想う」 シン・トウン ヤウ

Read in English 丘 成桐 (シン・トウン ヤウ)教授 ハーバード大学   この小林先生記念会議に私を招待して下さった落合教授に感謝いたします。 昨年、小林教授が亡くなられたを知った時は大変驚きました。先生はまだお若くエネルギーに溢れておられると思っていました。東京からバークレーに向かうご旅行中に機内で安らかに亡くなられた旨をH. Wu教授から聞きました。即座に私はバークレーで学生時代初めて小林先生にお会いしたときの笑顔を思い想い起しました。私は小林先生と落合先生が担当された微分幾何のセミナーから多くのことを学びました、今回の日本訪問中に落合先生から知り得た情報で感動した事が一つあります。私がバークレーの大学院応募した年は数学科への入学選考委員会の委員長は小林先生であったそうです。ドナルド・サラソン教授とS.S. チャーン教授が私のバークレーへの入学許可に大きく関与されたことは、長年知っておりましたが、小林教授も大変重要な役割を持たれていたことは知りせんでした。そして小林先生はこのことを生涯私には秘密にしておられました。落合先生によりますと、小林先生は私の応募に関し、バークレーは出来得る最善の努力をすべきだと強力に推して下さったそうです。私に大変高名なIBMフェローシップを下さったのですから正にその通りでした。当時米国人の学生がもらったフェローシップは通常2,400ドル位でしたが、私はそれを上回る3,000ドルを頂きました。小林先生は私をバークレーに入学させたことを、ご自身の大きな手柄の一つだと落合先生に自慢されたとの事です。先生のご親切さに心より感謝致しております。 私がバークレーに応募したのは香港で学部三年の時で、香港中国大学からまだ学士号は得ていませんでした。香港のサラフ教授の勧めで、バークレーの大学院のみに応募しました。バークレーへの入学は私の人生、数学者としてのキャリアに決定的なものでした。このフェローシップは私にとっても、私の家族にとっても大変有難いものでした。私の父はずっと前に亡くなり、私の家は大変貧乏でした。頂いたIBMフェローシップの半分を家に仕送りすることにより、私の家族を経済的に助けることができました。更に重要なことは、バークレーで現代数学を勉強したことが、その後の私の数学研究の基礎になったことです。 香港にいた頃は関数解析に興味を持っていました。バークレーでいくつかの科目を取ったり、聴講してからは幾何学の美しさに気づきました。小林先生と落合先生が担当されたセミナーは特に助けになりました。セミナーを理解するためにヒルツェブルク著「代数幾何学のおけるトポロジー的手法」を勉強するために多くの時間を費やしました。これは私にとって重要な転機点でした。チャーン教授に指導教授になって頂くようお願いしておりましたが、先生は私が大学院一年の年はサバテイカル休暇をとっておられました。ですから、幾何とトポロジーの基礎を学んだのは小林教授の講義や、ブレーン・ローソンとエド・スパニエーの講義からでした。 1970年の春、小林教授は彼の有名な著書「双曲多様体」を書き上げたばかりでした。出版される前にその原稿一式を私に下さったのには大変感激致しました。大変すっきりと書かれた本で、あの重要なシュワルツ=ピック補助定理を私はこの本から学びました。この補助定理に関してあれこれと思いを巡らせ、実数上で類似した結果を勾配評価の形として見出しました。この手法は偏微分方程式の分野における私の殆どの仕事に大きな影響を与えました。リ=ヤウの不等式はこの評価の放物版を理解することから得られました。カラビ予想における私の2階の評価もこの補助定理から示唆されたものです。私は小林教授と彼の学生アイゼンマンが提唱した内在的測度を一般化する努力をし、最後には、それを双有理不変測度に拡張することができました。 1970年から1971年にかけて、小林・落合両教授は、正の双断面局率を持つコンパクトなケーラー多様体は複素投影空間と双正則同値な関係にあるというフランケル予想を解明しようとしていました。二つの重要な手法がつかわれました。一つはビショップとゴールドバーグの消滅定理であり、2次のベッチ数は1であることを証明するのに使われました。もう一つは最低次の有理曲線が存在するということであり、これはヒルツェブルクと小平の仕事に遡ります。小林-落合がリーマン-ロッホ公式と消滅定理を応用したことに、私は深い感銘を覚えました。1978年私はフランケル予想と小林-落合のこれらのアイデアをシウ氏に伝え、安定的極小曲面の為の第2変分公式を取り扱う新しい方法を開拓する研究を彼と一緒に始めました。 そしてサックス-ウーレンベックによって開拓された極小球面の理論を応用することにより、最低次の有理曲線の存在を証明しました。我々はフランケル予想を証明することに成功しましたが、森氏は、より一般的なハーツホーン予想を証明しました。極小曲面を使って最小次の有理曲線を作るというこのアイデアはグロモフによってシンプレクテイック幾何における擬正則曲線を開拓するのに使われました。 1982年に私がフィールズ賞を受賞した後、私の仕事を日本語で紹介する記事をご親切にも小林先生が書いて下さったことも付け加えたいと思います。先生と私は、チャーン数の不等式に関するボゴモロフの仕事を知って以来、幾何学における多くのアイデア、特に束の安定性に関するアイデア、を共有致しました。 数学でのお付き合いのみならず、小林先生は私を学生として、友人として大変親切に接して下さいました。1978年にヘルシンキでの国際数学者会議に出席する前にボンを訪問した際には、先生のお宅に短期間滞在させていただきました。 その頃小林先生はバークレーの学科主任をされておりました。彼のリーダーシップは、同僚達により「傑出した」そして「英雄的」であったと語られています。彼の笑顔と外交的手腕によって、彼は数学科の望みの多くを理学部長から手に入れました。世界中からの数学科への訪問者、特にキャリアを始めたばかりの若い人たちに対する彼の暖かい持成しは遍く知られています。彼の数学と数学者コミューニテイへの貢献を、私たちはこれからもずーと忘れないでしょう。 (翻訳文責・小林久志)