追悼の辞

原文の英語版はこちら || Click here for the original English version

HisashiKobayashi

 小林久志、昭七の弟

 

ブロシャード牧師、クランツ牧師、ご列席の皆様

本日ここに兄小林昭七の告別式のためにご列席くださいました皆様に、小林家を代表し心より厚く御礼申し上げます。

昭七は1932年1月4日、私たちの両親小林久三、与志江の長男として山梨県甲府市に生まれました。昭七の生後まもなく、両親は起業するため東京に移りました。当時、日本はまだ世界大恐慌の真っ只中にあり甲府では起業の機会などは限られていたからであります。東京に移ってから、次男俊則、三男久志(私)、四男久夫が3年間隔で生まれました。両親が3年ごとに子供を作る計画をしたかどうかは定かではありませんが、この周期系列は戦争で妨げられ、五男の和男は久夫の6年後に誕生しました。残念なことに、久夫は二歳で、和男は大学卒業後まもなく、それぞれ他界しました。私の二番目の兄俊則は日本在住ですが、最近健康がすぐれず、残念ながら本日ここに参列することが出来ません。

昭七と私は6歳半違いで、私に物心がついたころは、彼はすでに小学校高学年でしたから、一緒に遊んだという記憶はありません。兄はいつも私の良き指導者であり、お手本的存在でありました。彼のような素晴らしい兄を持ち私は大変幸運でありました。昭七は俊則と私が学業に励むよう、普通の兄弟では考えられぬ程、熱心に時間を費やしてくれました。

1944年、B29爆撃機が東京を脅かすようになると、私達一家は防空壕に度々逃げ込みました。昭七は中学一年生でしたが、いつも数学の本と蝋燭を持って防空壕に入ったと生前母が当時を思い出しては言っておりました。1945年の春に私達一家は長野県南佐久に疎開し、昭七はそこの野沢中学に転入しました。当時の日本の教育制度では、ナンバー・スクールと云われた高等学校(全国で8校だけありました)に入学するのは、大変な競争であったようです。ナンバー・スクールからいずれかの帝国大学に進学するのは比較的楽であったようです。東京の第一高等学校(略して一高)に合格するのはもっとも難しかったようです。当時の中学校は5年生までありましたが、4年生でも高等学校の入学試験を受けることが許されました。ほんの僅かの優秀な学生しか合格出来なかったと聞いておりますが、昭七は中学4年生で一高に見事合格しました。野沢中学では前代未聞の快挙であり、昭七は同中学校(現在の野沢北高校)の伝説的人物になったようです。当時私は小学校4年生でしたが、村中の人たちが私たち一家を祝福して下さったことを覚えております。

1948年(昭和23年)の秋、昭七の一高入学の半年後に、私達一家はやっと東京に戻ることになり、一高の寮住まいの昭七は週末に家に帰って来ては、しばしば私を古本屋に連れて行き、適当な算数の本を見つけてくれました。当時私は10歳、小学校4年生でした。そして兄はフランツ・シューベルトの野薔薇の歌も教えてくれました。ドイツ語を知らぬ私はおうむのようにその歌を覚えました。(“Sah ein Knabe ein Röelein stehn, Röelein auf der Heiden, War so jung und morgenschön. Lief er schnell es nah zu sehn, Sah’s mit vielen Freuden. Röslein, Röslein, Röslein rot, Röslein auf der Heiden.”) この歌は今でも覚えています。私がメロデイーだけでなく歌詞も覚えている歌は殆ど無いのですが、このドイツ語の野薔薇はその数少ない歌のひとつです。

昭七が東大(一高は東大の教養学部になりました)に進学した1950年(昭和25年)の春に両親がやっと世田谷区に購入した家は吉祥寺の借家より広かったので、昭七は寮を出て私達と一緒に住むようになりました。当時両親は私の学業成績には充分満足していましたが、昭七兄はもっと勉強するよう、いろいろと私に指図しました。例えば、渋谷の青山学院で週三回夕方に英語のクラスを受講するようにと指示しました。青山学院での夜学がない日に友達とジョン・ウェインのカウボーイ映画などを観て家に帰ると「久志、お前は時間を浪費しておる。勉強せよ」と叱られたことが往々ありました。

昭七は東大4年生の時にフランス政府招聘留学試験に見事合格し、21歳で東大を卒業した1953年(昭和28年)の夏 横浜港からフランスへ発ちました。パリとシュトラスブルグで勉強後、1954年にアメリカに渡り、シアトルのワシントン大学からアシスタントシップ(研究助手をする奨学金)を与えられ、二年足らずで博士号(Ph.D.) を取得しました。弱冠24歳でした。

日本を離れた後も昭七兄は私の教師でありました。1954年にハーバード大学のバーコフ教授とマクレーン教授の共著「現代代数学概論」の日本語訳が出版されると、毎週一章ずつ勉強し、演習問題の解答を航空便で送ってくるように指示が来ました。兄は私の答の誤りを訂正して航空便で送り返してきました。 自分の博士論文の研究で大変忙しかったのにも拘わらず、私の教育の為に寛容に時間を割いてくれました。更に英語以外の外国語も習得することの重要性を私に説き、早くドイツ語の勉強も始めるようにと手紙で言ってきましたので私は戸山高校の近くにある高田外語に通い始めました。

1956年の春、両親は昭七から「芦沢幸子という女性と結婚することになった

との手紙を受け取りました。私はその時になって初めて、兄も女性に興味があるのだということを知りました。それまで彼の関心事といえば、数学の研究と私に数学を教えること位と思っていましたから一寸驚きでした。東大時代昭七兄にはガール・フレンドなど一人もいなかったと思います。昭七兄からの手紙には、美しい幸子さんのポートレートが入ってました。私は「兄さんがこんなに美しい女性と結婚するとは驚いた。僕も嬉しく思う。両親が何と言おうと、僕は兄さんの決断に味方するよ」と書きました。両親も兄からの突然の話には驚いたようでした。父は早速身延山にある芦沢家の寺を訪れ、墓が立派であることを確かめて満足して帰ってきたようでした。幸子さんが良い家庭のお嬢さんであるに違いないと確信したからでありましょう。父は日頃から小林家の先祖と立派な墓を大変誇りにしているような人でした。

昭七兄の性格は幸子さんと一緒になってから大きく変わったと思います。結婚後の写真では彼は殆どいつも微笑んだり、笑っていますが、日本にいた頃に彼が微笑んでいたのを見た記憶は余りありません。いつも真剣な表情をしていたと思います。幸子さんとの結婚後に、兄から「久志、お前は時間を無駄にしておる」などと批判をされたことはありません。昭七を円満かつ寛容な性格の持ち主に変えて下さった幸子さんに感謝しております。

兄は明朗な妻を持ち、可愛い娘スミレとメイ、優しい性格の娘婿フィル・チョウ、そして将来が楽しみの賢い二人の孫、アンドリューとブレンダンに囲まれ、大変幸せに満ちた人生を送ったと思います。あと数年程生き延びてくれたら、更に本を二冊 か三冊書き上げたに違いありません。 しかし睡眠中に人生の終りを告げるのは、この世界から旅立つ最もやすらかな方法であると思います。兄が永遠に離れて行ってしまったのは確かに大変淋しい。しかし小林の定理、小林の距離、15冊の著書と数多くの論文は永久に残ります。彼の人生は素晴らしかったと思います。 私達は彼の人生の一部であったことに誇りを感じ、これからも末永く彼とのよき思い出を大事に心に留めていきたいと思います。 ご静聴ありがとうございました。

(翻訳文責・小林久志)

小林メイ、昭七の次女

(翻訳文はありません。英語での原文はここをクリックして下さい。)

 

AlanWeinstein

アラン・ワインシュタイン教授、数学科の同僚

 

私は大学院生だった1960年代から小林昭七教授を知っています。私は1969年からバークレーで教えていますが、今もここにおるのは、昭七氏のお陰です。1970年代の末、カリフォルニア工科大学から誘いがあった時、彼は学科主任でした。太陽の輝く南カリフォルニアを捨てて、バークレーに戻るようにと、彼は私のために良い条件で大学と交渉してくれました。彼の効果的な説得で私はバークレーに戻ることになりました。彼が提示した条件の一つはバークレーに戻ったら教授採用・昇進担当の学科副主任を一年間やるということでした。このような管理職を経験した人から見れば、これはたいしたご褒美でないと思われるかもしれませんが、実際は普通の学科主任だったら副主任に委ねるようなことまで昭七自身がやってくれたました。私は大変ラッキーでした。 何もかもうまくいったので、私は大変幸せでした。さらに、妻のマーゴと私は昭七と彼の奥様-グレースという彼女にピッタリの英語名で呼びますが-と親しくお付き合いする機会に恵まれました。

昭七は35人の博士を育て上げ、微分幾何学の分野で多くの貢献を成し遂げ、影響力の大きい多くの著書を完成するなど、数学者として最も素晴らしい遺産を後世に残しました。

彼の名前を冠した業績の中で最も有名なのは、1967年に彼が導入した「小林の擬距離」であります。この名前からは何か偽物のように聞こえますが、これは距離を示す本当の尺度であり、昭七が手早く見つけたものであります。現在では複雑な多様体の間、あるいは多様体の中における写像を検討する場合に不可欠な道具となっています。

これらの空間のいくつかの座標軸は虚数でパラメータ化されますが、「擬」はそれとは無関係です。「擬」とは、ある空間においては二つの異なる点の間の距離がゼロであることもあり得ることを意味します。昭七は、このような望ましからぬ性質を持たぬ空間はある意味で「良い」空間であることを示し、それを双曲性空間と名付けました。「小林の双曲性」なる名前で知られています。

昭七氏の研究は複素幾何の分野に集中しています。50年以上のキャリアを通して、数多くの重要な功績を残しました。しかし微分幾何の他の分野も手がけました。私の一つの論文は、彼が正曲面多様体に関して論じたテーマに関連したものであります。

彼は数学上でのコミュニケーションに熟達していました。彼は「数学の論文を英語でいかに書くべきか」という(日本語の)論文まで書きました。もっと重要なことは、歴代の数学専攻の学生達や他分野の研究者達が彼の野水克己との共著 “Foundations of Differential Geometry” (上下巻)から微分幾何と複素幾何を学んできたということであります。

昭七氏は私にとって「日本を西洋に開く」エージェントでありました。彼の共同研究者である落合卓四郎氏の紹介で1987年春に招かれて東京大学を訪問する機会に恵まれて以来、私とマーゴにとって、日本は我々の最も気に入った訪問先になりました(もう一つの国は昭七氏自身が最初に訪れた国フランスです)。我々は何度も日本を訪れ、昭七とグレースが慶応大学のゲスト・アパートメントのために集めた調度品を使わせてもらった恩恵も得ています。

小林家の皆様、私達が特に永年知り合いのグレース、メイとスミ、そして今日初めてお目にかかったご家族の皆様方の悲しみに同情いたします。昭七氏が長い充実した人生を送り、私達の誰もが望むような安らかな旅立ちをされたことは嬉しく思います。しかし彼の寛大なる友情、ユーモアを解する心、久志氏が触れた彼の素晴らしい笑顔にもうこれから接することがなくなるのを思うと寂しくなります。幸いなことに、彼の立派な数学上での遺産を通して、そして素晴しい人だったという我々の思い出の中に彼は生き続けます。

(翻訳文責・小林久志)

ArthurOgus

アーサー・オーグ教授、数学科主任

 

我々の学科の小林昭七氏に対する非常に大きな尊敬の念と感謝の気持ちを表わす事を試みることは悲しいことでありますが、大変名誉なことでもあります。この責務は私にとって今まで経験したことのない重要なものであります。小林氏は数学の歴史上、そして我々数学科の歴史上偉大な人物でありました。彼は素晴らしい同僚、数学者であり、英雄的な学科主任でありました。1962年に助教授として採用され、早々と1966年に正教授に昇進するなど輝かしいキャリアの持ち主でした。彼は大変親切な人柄であり、静かであるが芯は強く、相手の心を和らげる笑顔の持ち主でした。彼と一緒にいると心地よく感ずると同時に畏敬の念を覚えました。私がバークレーに来たときは、それよりずっと以前から彼の評判は知っていましたので、彼に会い、そして彼のセミナーに出席した時は嬉しさで一杯でした。 昭七氏は1978年から1981年迄学科主任を務めましたが、私や他の人達に大変親切に接してくれました。当時は、有名な「スペース戦争」の時代でもありました。大学本部は反啓蒙主義的な布告、公式、計算を駆使して、数学科のかなりの部分のスペースを取り上げようと試みました。カルビン・ムーア教授は我々の学科の歴史に関する本の中で次のように述べています:「微妙で賢い外交駆け引きで、昭七は全体のスペースの10パーセント程度しか失なわなかった。これは成功であり、勝利であった。」 しかし、私の記憶はこれとは少し違います。我々の学科が大学運営本部からメモを受け取る度に昭七氏はそれを掲示板に貼り、それと一緒に丁重ではあるが完全に圧倒する反ばくメモをも掲載しました。学科のメンバーにとっては非常に面白い読み物であったが、運営本部にとっては愉快なものではなかった。私は昭七氏の綿密な仕事振りを見て学科主任の役割の難しさと複雑さを知りました。彼がまだここにいてくれて、彼の造詣深いそして親切な知恵をもって私を色々と助けてくれて欲しいと心底から願う気持ちであります。私は学科主任になった時、学科主任を経験した彼に一般的な助言を求めました。彼は「自分自身の名をあげるために大きな事を試みるな」と忠告してくれました。彼が学科のために成し遂げたことの半分でも出来たら、私は大変誇りに思います。

(翻訳文責・小林久志)