小林昭七さんの野沢中学校時代

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NoboruNaito内藤 昇,  中学時代の同級生
信州大学名誉教授 (長野市)

謹んで小林昭七先生の突然のご逝去を悼み、心からご冥福をお祈り申し上げます。世界の数学界をリードなさって来られた小林昭七先生と旧制中学時代最後の2年9か月程を、同じ教室で同級生として学ばせて頂いた一人として、太平洋戦争末期の信州の中学校の状況を辿りながら、疎開という苛酷な環境にも関わらず優れた才能の萌芽を育くまれた秀才の思い出を書き留めさせて頂きました。

長野県南佐久郡での小林家

Saku

「佐久平の夕映え」画:鈴木公人(1928-)日展会友(日本画)

東京で育った小林昭七さん一家は、空襲の危険を逃れて父君の実家の在る甲府に疎開されましたが、そこも危なくなり昭和20年(1945)の5月、未だ安全と思われていた山国信州の東部、群馬県境に近い長野県南佐久郡平賀村後家(現在の佐久市平賀北耕地)の柳沢金次郎様宅(注1)の離れに疎開されました。終戦後しばらくして、村の公会堂へ引越されましたが、その後柳澤毛佐造様宅(注2)の離れに引っ越されました。

野沢中学校に転入された昭七さんは、「直線距離4km以遠は自転車通学可」という校則に若干不足の4km弱の通学路を、野沢中学校へ約40分歩いて通われました(注3)。私の生家は中込寄りの所の荒家(あらや)ですが、下肢にゲートルを巻き背嚢を背に学帽を被り同様に約40分歩いて通っていました。私が野沢中学校に入学した昭和19年(1944)には、地区毎に最上級生を先頭に軍隊式に隊列を組み集団登校する事になっていましたが、上級生が勤労動員で居なくなった20年春から友達同志で通学していました。

戦時中の野沢中学校

昭和18年(1943)1月に「中等学校令」公布と、3月に「中学校規定」制定とに拠り中学校の修業年限が4年とされ、18年度入学生から適用とされていましたが、一日も早く卒業し戦争遂行の要員となすべく、17年度入学の4年生は来年20年3月に5年生と一緒に卒業する事になっていました。山国で空襲には無縁だと思われた信州でしたが、昼夜の別無き空襲警報に直江津港や新潟港へ魚雷を投下すると噂されたB29の爆音を聞く事が増え、「松代の地下に大本営を構築している」と囁かれた大型トラックが砂塵を上げて北上する様になりました。

私が昭和19年春に入学した頃の野沢中学校は、松岡重三郎校長が県内でも屈指の軍国主義者で、毎週一回の全校朝礼では講堂正面ステージ背面の壁の左右に「忠」「義」と墨書された大きな額に挟まれた演壇で、杉本五郎中佐著「大義」を講義、机に爪痕が刻まれたと噂される程の熱弁をふるわれました。昼食前には、この本から引用した校訓、「吾等は陛下の股肱(ここう)なり」(太ももと腕)につづく1。 子弟の本分を全うする、2。 学校では生徒の本分を全うする、3 。醜の御楯(しもべとして楯になり陛下を守る) の三つ誓いそれぞれを教官の範唱に続けて生徒が唱えてから「頂きます」となる毎日でした。ある日、ある先生が、「陛下は吾等の股肱なり」と過って唱えてしまい、青くなって職員室に戻りその日昼食を摂らなかったそうです。

松岡校長は、生徒に予科練等の軍関係への志願を積極的に勧め、生徒や教職員に「この戦に負けたら陛下の為に腹掻っ切って死ね!」と叱咤し、体育教諭を教頭に昇格させ、配属将校と共に徹底的な軍隊式しごき教育を行っていました。

昭七君、野沢中学校に転入、そして敗戦を迎える

昭七君と私が通った野沢中学は現在野沢北高等学校

昭七君と私が通った野沢中学は現在野沢北高等学校

こんな厳しい状況の中、昭和20年5月に昭七さんが転入されました。 昭七さんが転入された2年3組(第二中隊第三小隊と呼んだ)は学級定員50名の定員を遥かに超えて受け入れた疎開生で溢れ、教官(先生)の机間巡視も困難でした。縁故を頼って疎開して来られた人の中には、ミッドウェー海戦で爆撃されて沈み行く空母「蒼龍」の艦橋で炎に包まれ艦と運命を共にされた柳本柳作提督の遺児や、日本画壇の重鎮奥村土牛画伯のご子息などが居られました。

19年度から終戦までの約1年半に、学校全体(定員600人)の疎開生は総計186人、一クラス(定員50)平均15人でしたが、勤労動員に駆り出された上級生の不在が殆ど日常化し、疎開生ばかりでなく校内には工場の工作機械や陸軍航空食料研究所が教室・研究室・実験室などを占有する有様でした。軍需工場に動員された5年生はB29の爆撃や東南海地震(M7。9)に見舞われ、4年生の一人が感電死する等に加えて、動員先での劣悪な食料事情に泣かされました。

動員中の上級生の家庭への連絡に在校生が頼りにされ、全校集会には上級生の名前を読み挙げ、近くに住む生徒に挙手させて文書を託すようになりました。19年度は運動会その他の行事は出来ず20年に入って校庭は開墾され野菜畑や防空壕が構築されました。20年3月の卒業式では5年生と一緒に4年生も卒業されました。(この卒業式では「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌われず、「学徒出陣の歌」だったというが、私は思い出せない)20年3月からは授業が1年間停止され、全学年勤労動員や学徒隊として本土決戦訓練が義務付けられた為に、教育機能は全く停止状態でした。20年度は5年生が在籍せず4年生が最上級生で、3・4年生は県内の勤労動員で殆ど不在、学校に残った1・2年生は幾人かの集団に分かれて防空壕堀り、農家への勤労奉仕、疎開して来る津上工場の敷地整備等で教室での授業は全く無くなりました。

私は北中込駅近くの西側に建設予定の津上製作所の敷地整備に、炎天下上半身裸で崖のような土塊をスコツプで切崩してして均す作業をしましたが、別の日に南佐久農学校(現在の臼田高等学校)生徒の一人が崩れ落ちた土塊に埋まり亡くなりました。疎開生として編入された昭七さんとはこの時期一緒に何かする機会も有りませんでしたが、きっと慣れない環境で東京・甲府の中学校との差をじっと観察して居られたのでしょう。

8月に入って広島・長崎への新型爆弾(原爆)投下、お盆入りの13日には長野市への小規模な空襲あり、本格的な空襲の前触れと言われました。8月15日天皇の玉音放送を聴きました。ラジオは雑音が多く、玉音は途切れ途切れで聴き憎く内容が良く判りませんでしたが、戦争に負けたらしい事は判りました。生徒の誰かが「校長腹掻っ切って死ね!」と叫んで教室へ走り去りました。県内でも屈指の軍国主義校長の一人として予科練等の軍関係への志願を積極的に勧め「この戦争に負けたら陛下の為に腹かっ切って死ね!」と繰り返し叱咤した松岡校長が、徐々に民主主義を口にするようになり、校長の強い勧めに従いお国の為にと予科練等に進み敗戦で復学した生徒達の苛立ちや、教職員等の不満の捌け口が、変節した校長に向けられ、「校長腹掻っ切って死ね!」と罵倒され、「鞭をもて追わるる如く」12月に更迭されました。

代わって平賀村出身の広島高等師範学校卒業数学教諭で他校の校長をしておられた中澤睦次郎校長が母校に着任、「あれこれ迷わずクソ勉強をせよ」と激励されました (後に県教委の委員長になられました) 。終戦直後の激変した社会は特に食料不足が深刻で、他郷から赴任して来られた先生方は食料調達にご苦労され校庭の開墾畑で採れる食物が頼りの様でした。食・住その他極めて深刻な環境での昭七さんご一家も大変ご苦労された事と思います。帰る所の在る疎開生は帰り始めましたが、独立朝鮮に帰った人は朝鮮戦争後どうなったでしょうか。20年の秋以降は学校も徐々に落ち着き教室での授業も再開されましたが、食糧不足で故郷に戻り教職免許状を生かして先生になられた幾人かの先生の中には、生徒の学力段階についての配慮が全く無く一方的に授業を進める先生も居られて生徒は苦労しましたが、概ね短期間で退職されました。

林宗男先生との出会い

数学担当の林宗男先生 (写真は柳沢正良様提供)

数学担当の林宗男先生 (写真は柳沢正良様提供)

数学の授業では、16年(1941)中学卒の私の兄が使った代数・幾何の教科書には無かった順列組み合わせ等が目新しかったですが、2次方程式の解の式さえ覚えておけば試験は満点が採れるような先生の講義では昭七さんは頬杖ついて黒板を眺めて居られました。21年(1946)3月の20年度の卒業式は5年生がいないので行われませんでした。私たちが3年生になった昭和21年度(1946)は、終戦後の混乱が徐々に落ち着いてきて、勉学に打ち込める環境が整いつつあった時期でありました。

21年8月に林宗男先生(数学)新任採用。東京物理学校御出身で数学専攻の林先生の採用には数学者としての中澤校長の強い要請が有ったのでしょう。林先生は名古屋大学の大学院を終了されたばかりだと生徒に噂され、数学の講義をされる事は初めての経験ながら教える事を楽しんで居られる様子でした。22年の夏休みに入った週に五日間程、希望者20人位に教室で特別講義をして下さいましたが、主に微分積分にまつわる基礎的な事柄についてのお話だったと思います。林先生はクラブ活動の数学班の上級(4・5年生)の顧問教諭として理論・演算重視の授業から離れた数・量・空間に関する指導を行われ、応用問題自由研究の下級(3年生以下)を含め22年度(1947)には100人以上の生徒が活動したという。(私は物理好きで物象班と、予科練生の美しいフォームに憧れ体操班でした)。

昭七さんは当然のようにこの数学班に所属、秋の学芸会では「交流の実効値の算定」のテーマで発表されました。私はこの学芸会を拝聴出来ませんでしたが、「交流の実効値」は昭和26年工学部2年次(1951)に必修の「交流理論」で学んだ積分演算です。昭七さんは数学に限らず全ての学科で優秀な成績を収めて居られましたので、先生方もその並外れた資質に注目して居られました。ある日昭七さんが私に「直線定規とコンパスだけで角の3等分をしてみろ」と言われました。いろいろ試行錯誤して翌朝、全校朝礼始まる直前にも苦闘しているのを昭七さんはニヤニヤ眺めていて、朝礼から戻った当方未だ浮かぬ顔。 昭七さん暫くして曰く「その問題は解けない事が証明されてるんだ」と。

戦後になって何時からでしょうか、昭七さんが風邪が長引いて欠席が続いた時が有りました。担任の柳澤恒夫先生(物理)から「君の近くだから様子見て来てくれ」と言われて初めて伺いました。思ったよりお元気で、玄関まで来られて「こんな物読んでるんだ」と見せてくれたのは「確率、統計」の文字が並ぶ本でした。学校を休んでもこんな本読んでるなんて偉いな、と感心。お母さんにもお目にかかりましたがお顔は思い出せない。「お母さんがご立派な方」というのは優れたご一家を知る村人の評判でした。

昭和21年度には運動会も再開され、校庭の西南隅に、県内では珍しい25mプールが在り、水泳対外試合で良い成績を収めていた事もあって運動会では全員が伝統の名物、褌(ふんどし)一つの裸での「水泳体操」が秋の運動会の必修。極端に痩せた私には甚だ苦痛でした。一チーム6人くらいで組んだ「百足(むかで)競争」で、昭七さんのチームでは昭七さんが先頭を務めましたが、頑健な級友6人位が前の人の肩にしっかり抱きついて足並み揃えて、一斉に「イッチニ!イッチニ!」と叫びながら前へ前へと押して進む後ろからの力に抗して、一生懸命のけ反るようにして前進する昭七さんの必死の形相が鮮やかに思い出されます。体力的に大変な先頭役をやり遂げられた事に敬服しました。

数学者を目指して

昭七さんは林先生の授業で数学が好きになられ、疑問があれば臆せず直接先生に納得ゆくまで質問されたそうですが、そんな昭七さんの行動力が次の様に臆病で引っ込み思案な私には羨ましかった。担任の柳沢先生の物理期末試験では設問への正解が判った問題は記入して提出しましたが、何故それが正解か判らない回答には「?」を付けておきましたら、後で「お前、答えに?なんか付けてあるから減点したぞ」と言われました。「何故こうなるのか判りません、説明して下さい」とは言えませんでした。昭七さんは林先生の講義が面白くて、質問攻めで急速に数学好きになり数学研究者になろうと決心された経緯は、ご本人が色々な機会に繰り返し述べて居られた通りです。

昭七さんは野沢中学四年修了(1948年3月)で第一高等学校に合格、林先生が旧制上田中学校へ転勤された23年4月に、東京へ、大数学者として世界に羽ばたく門出となりました (昭七さんのご家族は同年秋に東京へ帰られました) 。日本評論社から雑誌「数学セミナー」が創刊された頃、昭七さんの東大での恩師矢野健太郎先生が編集に関わって居られた関係もあって、留学先からの記事が時々掲載され、私はその活躍振りを興味深く拝見して影ながら応援して居りました。私には昭七さんは雲の上の存在になってしまいました。

昭和25年(1950年)1月8日の家族写真 前列左から、母与志江(41)、五男和男(2)、父久三(45)、三男久志(11)。後列:長男昭七(18、東大1年)、次男俊則(15)

昭和25年(1950年)1月8日の家族写真 前列左から、母与志江(41)、五男和男(2)、父久三(45)、三男久志(11)。後列:長男昭七(18、東大1年)、次男俊則(15)

Shoshichi

 

 

 

 

 

 

 

 

昭七さんから「私に数学の面白さに目覚めさせて下さり、数学研究者へ進む決心を固めさせて頂いた恩人」と慕われた林先生は就任1年8か月後の昭和23年(1948)4月に旧制上田中学校へ転勤された後に結婚なさり栗本姓になられ、引き続き同校の新制上田松尾高校(現在は上田高等学校)、更に女子高の上田染谷丘高校を歴任されご退職、平成15年(2003)2月ご自身の誕生日に79歳でお亡くなりになりました。

この間、昭七さんは上田市東方の菅平での学会に何回か来日され、3回ほど林先生と会われたとの事です。2010年の秋、昭七さんは菅平での研究集会の帰りに、東京へ直行する代わりに上田・小諸・中込・小淵沢・東京へと62年振りに懐かしい風景を車窓から眺めながら思い出に浸る時間を楽しまれたそうですが、あらかじめ情報をキャッチして日程をお聞きし、中込で下車頂き、疎開先や野沢北高へお寄り頂くように計画出来なかった事が悔やまれます。

数学はその深い意味を理解する事も無く、道具として活用して来た工学者としての私は、昭七さんの微分幾何学から複素多様体、疑距離、双曲性、複素射影空間等々にわたる業績は理解の外でありますが、手元に死蔵してある裳華房の「曲線と曲面の微分幾何」改定版その他から少しでも理解してみたいと思っています。何時か野沢北高等学校にお招きして、後輩に「数学の美しさ」について講義して頂こうと思いながら、私の引っ込み思案で果たせぬまま訃報に接し、昭七さんにも母校の野沢北高等学校にも申し訳ありません。

数学の世界で不滅の業績を残されたご生涯に深く敬意を捧げ、改めて心からお悔やみを申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。                  合掌

参考資料:

  1. 「野沢中学校・野沢北高等学校百年史」
  2. 「この数学者に出会えてよかった」数学書房
  3. 岳南15年会編集「奢りの宴玉杯の」(株)櫟 発行

追記

小林家が昭和20年にお世話になった柳沢金次郎様宅 (柳沢信義様提供)

小林家が昭和20年にお世話になった柳沢金次郎様宅 (柳沢信義様提供)

小林家が昭和22年―23年に住んだ柳沢毛佐造様宅の離れ (柳沢きよ子様提供)

小林家が昭和22年―23年に住んだ柳沢毛佐造様宅の離れ (柳沢きよ子様提供)

注1:金次郎様の次男の柳沢直之さんは平賀小学校で私と同学年、5月25日の「偲ぶ会」に出席された柳沢信義さん(金次郎様の四男)は久志さん(昭七さんの弟)同学年。柳沢忠治さん(三男)は俊則さん(昭七さんの弟)と同学年。

注2:同じく「偲ぶ会」に出席された山川きよ子様は柳沢毛佐造様の四女。昭和22年―23年に小林様一家が住まわれた離れの貴重な写真(右)を提供。

注3:柳沢家の南側近くに群馬県境から西に流れる内山川があり、後家橋(ごかばし)を渡って暫く南下すると群馬県富岡から野沢に通じる国道254号に出てすぐ東方が平賀村の中心地で、役所、農協、尋常高等小学校、郵便局などがありました。 昭七さんは、内山川の北側を西に下りてから南下し、樋村橋(ひむらばし)を渡り右折して西の田子川橋を渡り小海線の踏切を渡り、中込から千曲川の野沢橋を過ぎて野沢中学校へと約40分歩いて通われました。
佐久平は冒頭の鈴木公人の絵のように、北に浅間山が聳え、南に八ヶ岳、西方遥かに飛騨山脈(北アルプス)を望む山紫水明の地であります。

平賀から望む初夏の浅間山、2013年7月撮影 (柳沢信義様提供)

平賀から望む初夏の浅間山、2013年7月撮影 (柳沢信義様提供)

平賀から望む冠雪の浅間山、1995年撮影 (柳沢正良様提供)

平賀から望む冠雪の浅間山、1995年撮影 (柳沢正良様提供)

爆発する浅間山を平賀村から望む。1973年11月撮影(柳沢正良様提供)

爆発する浅間山を平賀村から望む。1973年11月撮影(柳沢正良様提供)

「初冠雪 浅間は神の山 となる」
昇 作句