記念基金6万ドルに達する
5月25日に開催された偲ぶ会には多数の皆様のご参加を得て、123,856円もの余剰金が生じました。さらに、当日ご招待の方々のうち8名様からご寄付12万円を賜りました。 合計2,419ドルをカリフォルニア大学バークレー校の「小林昭七記念基金」へ寄付させていただきました。組織委員会ならびに小林家に代わりまして、ご参加下さった皆様と寛大なご寄付を賜りました方々に深く御礼申し上げます。 「小林昭七記念基金」は昭七氏が亡くった直後の九月に結成された基金で、カリフォルニア大学バークレー校数学科大学院で学ぶ外国人留学生に奨学金を与える目標を掲げています。7月末までに、134人と1法人(社員の寄付と同額のマッチング・ギフト)からの寄付金額が58,300ドルに達しました。バークレーキャンパスの現役あるいは引退した教授職員、その配偶者ないしパートナー及び在学生からの2013年12月までの寄付に対しては、25万ドルを上限として、総長の学生支援のためのマッチング・ギフト・プログラムが適用されます。卒業生或いは大学の一般の支持者からの寄付には適用されません。 数学科のアーサー・オーガス主任教授は次のように述べています:「小林昭七記念基金への寄付を下さった小林教授のご家族、友人、同僚の方々に深く感謝致します。この圧倒的ともいえる反応は小林教授並びに数学科における彼の遺産(レガシー)への素晴らしい賛辞であります。この基金を通して大学院留学生に経済的支援を提供できることを待ち望んでいます。」 「小林昭七記念基金」に関する詳細、およびご寄付の方法の説明はこちらをご覧下さい。
小林昭七フォト・ギャラリー
English version 昭七の幼少時代からの写真を集めましたのでご覧下さい。 ギャラリー: 小林昭七を偲ぶ会:
小林昭七のエッセイ集「顔をなくした数学者―数学つれづれ」(岩波書店)
Read in English 小林昭七の随筆集が岩波書店から7月30日に発行されることになった。 微分幾何および複素多様体の研究で、世界的な業績を挙げた著者の初のエッセイ集。「数学徒然」と題して書き留められた小片は、けっきょく完成を待たず遺稿となった。数学者の実像や数学記号がどんなふうに生まれたか、また「数学の美」とは何かといったエッセイから、数学および数学者に対する著者の深い思いが伝わってくる。(出版社のウェブサイトより) ISBN978-4-00-005217-7 C0041。 詳細は下記URLを参照されたし。 http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-005217 (岩波書店編集部からのメッセージおよび目次を読まれるにはここをクリック)。 岩波書店編集部からのメッセージ: 微分幾何および複素多様体の研究で、世界的な業績を挙げられた小林昭七先生が、2012年夏に急逝された。本書の原稿は、もともと科学ライブラリーの1冊として用意されていたものである。数学に関連するさまざまなトピックを小林先生なりの見方で料理して、広く一般の読者に、数学の面白さ、数学的思考の楽しさを味わってもらおうという企画であった。 2012年の春、先生から一束の書類が届いた。同封された手紙には、「まだ未完成であり、もう少し推敲したいので、まだ最終稿にはなっていない。この年末には仕上げるつもりだが、現状報告を兼ねて、原稿のコピーをお送りしておく」という内容が記されていた。見覚えのある字面で原稿用紙に書き込まれた原稿は一読して、いかにも小林先生の人柄を感じさせた。1日も早い完成を心待ちにしていたさなか、突然の訃報が飛び込んできた。一束のコピーが、けっきょく遺稿となってしまった。 ご家族や関係の方々と相談し、先生から未完成といわれた原稿ではあるが、こうして単行本として出版することができた。多くの方々に感謝したい。 目次を見るにはURL http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-005217 をクリックし、右下のMORE INFO をクリック。
小林昭七さんの野沢中学校時代
Read in English 内藤 昇, 中学時代の同級生 信州大学名誉教授 (長野市) 謹んで小林昭七先生の突然のご逝去を悼み、心からご冥福をお祈り申し上げます。世界の数学界をリードなさって来られた小林昭七先生と旧制中学時代最後の2年9か月程を、同じ教室で同級生として学ばせて頂いた一人として、太平洋戦争末期の信州の中学校の状況を辿りながら、疎開という苛酷な環境にも関わらず優れた才能の萌芽を育くまれた秀才の思い出を書き留めさせて頂きました。 長野県南佐久郡での小林家 東京で育った小林昭七さん一家は、空襲の危険を逃れて父君の実家の在る甲府に疎開されましたが、そこも危なくなり昭和20年(1945)の5月、未だ安全と思われていた山国信州の東部、群馬県境に近い長野県南佐久郡平賀村後家(現在の佐久市平賀北耕地)の柳沢金次郎様宅(注1)の離れに疎開されました。終戦後しばらくして、村の公会堂へ引越されましたが、その後柳澤毛佐造様宅(注2)の離れに引っ越されました。 野沢中学校に転入された昭七さんは、「直線距離4km以遠は自転車通学可」という校則に若干不足の4km弱の通学路を、野沢中学校へ約40分歩いて通われました(注3)。私の生家は中込寄りの所の荒家(あらや)ですが、下肢にゲートルを巻き背嚢を背に学帽を被り同様に約40分歩いて通っていました。私が野沢中学校に入学した昭和19年(1944)には、地区毎に最上級生を先頭に軍隊式に隊列を組み集団登校する事になっていましたが、上級生が勤労動員で居なくなった20年春から友達同志で通学していました。 戦時中の野沢中学校 昭和18年(1943)1月に「中等学校令」公布と、3月に「中学校規定」制定とに拠り中学校の修業年限が4年とされ、18年度入学生から適用とされていましたが、一日も早く卒業し戦争遂行の要員となすべく、17年度入学の4年生は来年20年3月に5年生と一緒に卒業する事になっていました。山国で空襲には無縁だと思われた信州でしたが、昼夜の別無き空襲警報に直江津港や新潟港へ魚雷を投下すると噂されたB29の爆音を聞く事が増え、「松代の地下に大本営を構築している」と囁かれた大型トラックが砂塵を上げて北上する様になりました。 私が昭和19年春に入学した頃の野沢中学校は、松岡重三郎校長が県内でも屈指の軍国主義者で、毎週一回の全校朝礼では講堂正面ステージ背面の壁の左右に「忠」「義」と墨書された大きな額に挟まれた演壇で、杉本五郎中佐著「大義」を講義、机に爪痕が刻まれたと噂される程の熱弁をふるわれました。昼食前には、この本から引用した校訓、「吾等は陛下の股肱(ここう)なり」(太ももと腕)につづく1。 子弟の本分を全うする、2。 学校では生徒の本分を全うする、3 。醜の御楯(しもべとして楯になり陛下を守る) の三つ誓いそれぞれを教官の範唱に続けて生徒が唱えてから「頂きます」となる毎日でした。ある日、ある先生が、「陛下は吾等の股肱なり」と過って唱えてしまい、青くなって職員室に戻りその日昼食を摂らなかったそうです。 松岡校長は、生徒に予科練等の軍関係への志願を積極的に勧め、生徒や教職員に「この戦に負けたら陛下の為に腹掻っ切って死ね!」と叱咤し、体育教諭を教頭に昇格させ、配属将校と共に徹底的な軍隊式しごき教育を行っていました。 昭七君、野沢中学校に転入、そして敗戦を迎える こんな厳しい状況の中、昭和20年5月に昭七さんが転入されました。 昭七さんが転入された2年3組(第二中隊第三小隊と呼んだ)は学級定員50名の定員を遥かに超えて受け入れた疎開生で溢れ、教官(先生)の机間巡視も困難でした。縁故を頼って疎開して来られた人の中には、ミッドウェー海戦で爆撃されて沈み行く空母「蒼龍」の艦橋で炎に包まれ艦と運命を共にされた柳本柳作提督の遺児や、日本画壇の重鎮奥村土牛画伯のご子息などが居られました。 19年度から終戦までの約1年半に、学校全体(定員600人)の疎開生は総計186人、一クラス(定員50)平均15人でしたが、勤労動員に駆り出された上級生の不在が殆ど日常化し、疎開生ばかりでなく校内には工場の工作機械や陸軍航空食料研究所が教室・研究室・実験室などを占有する有様でした。軍需工場に動員された5年生はB29の爆撃や東南海地震(M7。9)に見舞われ、4年生の一人が感電死する等に加えて、動員先での劣悪な食料事情に泣かされました。 動員中の上級生の家庭への連絡に在校生が頼りにされ、全校集会には上級生の名前を読み挙げ、近くに住む生徒に挙手させて文書を託すようになりました。19年度は運動会その他の行事は出来ず20年に入って校庭は開墾され野菜畑や防空壕が構築されました。20年3月の卒業式では5年生と一緒に4年生も卒業されました。(この卒業式では「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌われず、「学徒出陣の歌」だったというが、私は思い出せない)20年3月からは授業が1年間停止され、全学年勤労動員や学徒隊として本土決戦訓練が義務付けられた為に、教育機能は全く停止状態でした。20年度は5年生が在籍せず4年生が最上級生で、3・4年生は県内の勤労動員で殆ど不在、学校に残った1・2年生は幾人かの集団に分かれて防空壕堀り、農家への勤労奉仕、疎開して来る津上工場の敷地整備等で教室での授業は全く無くなりました。 私は北中込駅近くの西側に建設予定の津上製作所の敷地整備に、炎天下上半身裸で崖のような土塊をスコツプで切崩してして均す作業をしましたが、別の日に南佐久農学校(現在の臼田高等学校)生徒の一人が崩れ落ちた土塊に埋まり亡くなりました。疎開生として編入された昭七さんとはこの時期一緒に何かする機会も有りませんでしたが、きっと慣れない環境で東京・甲府の中学校との差をじっと観察して居られたのでしょう。 8月に入って広島・長崎への新型爆弾(原爆)投下、お盆入りの13日には長野市への小規模な空襲あり、本格的な空襲の前触れと言われました。8月15日天皇の玉音放送を聴きました。ラジオは雑音が多く、玉音は途切れ途切れで聴き憎く内容が良く判りませんでしたが、戦争に負けたらしい事は判りました。生徒の誰かが「校長腹掻っ切って死ね!」と叫んで教室へ走り去りました。県内でも屈指の軍国主義校長の一人として予科練等の軍関係への志願を積極的に勧め「この戦争に負けたら陛下の為に腹かっ切って死ね!」と繰り返し叱咤した松岡校長が、徐々に民主主義を口にするようになり、校長の強い勧めに従いお国の為にと予科練等に進み敗戦で復学した生徒達の苛立ちや、教職員等の不満の捌け口が、変節した校長に向けられ、「校長腹掻っ切って死ね!」と罵倒され、「鞭をもて追わるる如く」12月に更迭されました。 代わって平賀村出身の広島高等師範学校卒業数学教諭で他校の校長をしておられた中澤睦次郎校長が母校に着任、「あれこれ迷わずクソ勉強をせよ」と激励されました …
丘 成桐(シン・トウン ヤウ)教授の漢詩
Read in English シン・トウン ヤウ教授 (ハーバード大学) http://www.doctoryau.com/ 「小林昭七記念シンポジウム」で5月25日に 「代数多様体における計量法(Metric methods in algebraic manifolds)」と題する招待講演をされ、同日夜の「小林昭七を偲ぶ会」でも「小林昭七教授を想う」と題するスピーチを行ったハーバード大学のシン・トウン ヤウ教授から、小林昭七教授を偲ぶ漢詩を賜りましたので、ここにご紹介します。 哲人今已逝 懿範應長存 永別憐朋輩 況公師道尊 小林久志氏(昭七氏の弟)の友人、大野木克武氏による日本語訳を下に示します 哲人、今已に逝く (てつじん いますでにゆく) 懿範、應に長存すべし (いはん、まさにちやうそんすべし) 永別に朋輩を憐れむ (えいべつに ほうばいをあはれむ) 況んや公の師道の尊きをや (いはんやこうのしだうの たふときをや) 注:「懿」は「立派な」「美しく優れた」などの意があり、日本語でも「先生のご懿徳」などと使われる。「範」は師範学校などと言うように、「模範」「手本」「規範」の 意味である。「小林昭七先生のお教えは長く模範として、大切に引き継がれていくべきものである」と言うような意味であろう(大野木克武氏談) 小林久志氏の友人 Dr. …
「お礼のご挨拶」 小林幸子
Read in English 小林幸子、昭七の妻 私の夫、小林昭七は1932年(昭和7年)1月4日、未熟児として生まれたそうです。アメリカで言うpremature baby 愛称 preemieです。お医者様は「この児は3ヶ月もてば人並みに育つでしょう」と言ったそうです。昭七の若い両親は初めての子である昭七を一生懸命育てたそうです。湯たんぽを入れ過ぎて、一月なのに赤ちゃんに汗疹が出来たと言う失敗もあったとか。 その児が無事育って、第二次世界大戦中疎開先の中学校で素晴らしい先生に出会い、東京大学でも優れた先生方から教えを受け、更に数知れぬ程の、良い同僚、友人達に恵まれ、好きな数学一筋に人生を送り、80歳まで長生き出来ました。彼は好きな事だけして人生を了えました。何と幸せなことでしょう。 これも一重に彼を囲んで下さった先生方、同僚、お友達、知人のお陰だと思います。彼に代わり生前の御交友厚く御礼申し上げます。
「小林昭七教授と数学月間」 片瀬豊
Read in English 片瀬 豊 SGK(数学月間の会)代表 米国カリフォルニア大学バークレー校の小林昭七・数学名誉教授が昨2012年8月に昇天されました。心からのご冥福をお祈り致します。 「君は逝く 世界に虹を 渡しつつ」 2003年、米国に数学月間(Mathematics Awareness Month /MAM)というのがあると小林教授から紹介されました。山崎圭次郎教授らとウェブサイト(http://mathaware.org/about.mam.html)を調べたところ1986年に所謂レーガン宣言で始められ、社会の諸問題・各分野に対する数学の効用を強く意識して全国的に研究する様強力に進められて来ました。学生の数学力低下が強く意識されており、日本においても「ゆとり教育」が問題になっていました。そこで22/7がに近く22/8がeに近いところから7月22日~8月22日を数学月間とする様日本数学協会に提言し2005年に採択されるところとなりました(www.sugaku-bunka.org/数学月間の会 を参照)。 小林教授は世界各地を廻って特別講義やシンポジュウムをされており年に1回日本にも見えられたので数学月間に関する情報交換を続けて来た次第です。 米国MAMの目標は「数学の社会的理解と評価」を掲げており、日本では「数学と社会の懸け橋」を掲げて推進する事になって来ました。それぞれの大学が核になって数学月間行事を展開する様になっています。小林教授の遺志を継いで7/22~8/22数学月間行事を継続、拡大して日本の社会と数学界が益々発展する事を期待する次第です。 追記:米国における数学月間に関しては、小林昭七教授の随筆集「顔を失った数学者」(岩波書店、7月30日発行予定)の中の「数学サークル」を参照されたい。
「兄昭七を再発見」 小林久志
Read in English 小林久志、(昭七の弟) プリンストン大学名誉教授 落合先生、前田先生, 坪井先生その他の組織委員会の諸先生のご尽力により、22日からの四日間「小林昭七記念シンポジウム」を開催していただき、今夜は、このように、参加者百名を超える盛大な「小林昭七を偲ぶ会」を開催していただき心より御礼申し上げます。その上、私共小林、芦沢両家の親族を招待していただき大変恐縮に思います。親族を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。生前昭七が親しくお付き合いさせていただきました国内外の数学者の皆様にお目にかかる機会を頂き大変光栄に思います。兄の中学時代の同級生内藤昇先生には長野市から遥々お越しいただき、天国の兄も感激していることと思います。 さて昭七の一生を一ページにまとめますと次のようになります。 小林昭七 略暦 1932(昭和7) .1.4 山梨県甲府市生まれ 1953(昭和28) 東京大学数学科卒業 1953-1954 パリ大学・ストラスブルク大学留学 1956(昭和31) ワシントン大学にて博士号取得 1956-58 (昭和31-33) プリンストン高等研究所研究員 …
「指導教授としての小林昭七氏」 ゲアリ・ジャンセン
Read in English ゲアリ・ジャンセン セントルイスのワシントン大学数学科名誉教授 私にとって小林昭七教授は理想的な論文指導教官であり、メンター(よき助言者)でありました。彼は私のキャリアの数多くの段階で極めて重要な役割を演じてくれました。彼の助けや指導がなかったら、私は数学の教授には決してなれなかっただろうと申しても間違いないでしょう。以下私のストーリーを紹介します。 1964年10月に(博士号への)資格試験を終えてからも、私は1964-65年度の残りの時期を更にコースを取ることに時間を費し、さて次に何をしようかと思案してました。 当時の私には、「博士論文を書く」という事がどういう事なのか殆ど見当がつきませんでした。春学期の末に卒業する予定の友人が私に「君は何をしているのかね」と尋ね、私の返事に対し「それとは違う分野の数学を目指したらどうかな」と提言してくれました。そして彼は論文の指導教授をすぐ見つけるようにと私に強く勧めました。当時、指導教授を見つけるということは、私にとっても他の多くの学生にとっても非常に困難なステップでした。幸いにも、私は既に小林教授の表現論のコースを取っており、彼に実際に会って話してみようかなという印象を持っていました。私の指導教官になって下さいと頼むことに不安はありませんでした。その時は彼は即座には返答を下さらず、野水氏と共著で出版したばかりの「微分幾何の基礎、第一巻」を読んで夏を過ごしてみてはどうかと言われました。こうして私の生涯を通じての微分幾何への愛が始まったのです。 小林教授は私に、本を読むだけでなく週一度彼のオフィスに出向き、読んだ内容について話すようにせよと言われました。しかし、どうしたものか、私は、彼の意図する所は、私が彼に質問があるか、或いは気の利いたコメントが頭に浮かんだ時にだけ彼の所へ赴くけばよいのだろうと解釈しました。2週間も経たぬうちに小林教授はこの点での私の誤解をはっきりと指摘しました。それで私は本の第一ページから終わりまで懸命に読み始め、規則的に話に行くようになりました。我々の会話は決して長くはありませんでした。あれが彼の流儀だったのか、あるいは私が詳細な議論から知識を吸収するのが不得手である事を彼がすばやく見極めたのか、今でも定かでありません。しかし一番肝心なことは、その場その場の事情に応じて、私を時には優しく、時には強く突くことを、彼がよく心得ておられたことです。 秋学期の初めになって彼は私の指導教授になって下さることを承諾してくれました、しかし私はどんな問題に取り組みたいのか、研究をするということは何かということすら、丸っきり分かっていませんでした。その頃京都で開催されたコンファレンスの論文集の編集をされた彼とジェームス・イールスが収録した問題のリストを私に手渡し、この中から二つか三つ位、何か面白い問題があるだろうと示唆してくれました。一週間後、イールスとサンプソンが提唱した問題、即ち「単連結なコンパクトな、非負の曲率を持つリーマン空間にリッチ平行計量は存在し得るか?」を検討してみることに我々は同意しました。その学期中私は数々の論文を読みましが、全然進みませんでした。意を決して小林教授に自分は全然進歩してないし、実際どこから手をつけてこの問題を解いたらよいのか、全く見当がつかないと言いましたら、彼の返答は 「先ず4次元で等質の場合を検討してみたらどうかね」という単純なものでしたが、大いに役立ちました。このアイデアが一年もの間、自分で思いつかなかったとは、今思い出しても恥ずかしく思います。この助言に加え、4次元等質空間に関する石原の論文を読むよう指示して下さいました。かくして、やっとのことで、二三週間で内容を理解出来、更に自分の問題にも応用できるような論文に初めて出くわしたのです。 60年代半ばのバークレーの大学院は素晴らしい所でした。1967年秋学期の初めのミーテイングで、小林教授は静かな口調で、今年が私の最終学年だと言われました。「しかし、私には博士論文にまとめるだけの充分の結果がありません」と(確認をとるために)私は答えました。「そうだ」と彼は私に同意しました、しかし「これが君の最後の学年だよ」と再度言われた。私は彼の真意をやっと理解しました。それは私に強烈な動機を与えたメッセージでした。毎週の彼とのミーテイングで私は部分的な結果の寄せ集めを報告することを始めました。最初は壁にぶつかるような感じでしたが、猛攻撃で努力するにつれ、徐々に解明でき始めました。そして12月末までには、等質な4次元のアインシュタイン空間をすべて見つけることができました。 その一方で、小林教授は私の翌年の就職の件を課題として取り上げました。不思議なことに、この点について私は曖昧でした。それは明らかに、潜在意識下で、残りの人生もずっと大学院生でいたいという願望があったからです。彼が東部のある大学の何人かの数学者を紹介してくれましたので、私は彼らの学科に就職したいと申し出ましたが、先方から何の音沙汰もなく数週間が過ぎました。私はそのことを余り気にもしませんでしたが、ある日小林教授は私に「何か返事をもらったか?」と心配気に訊ねました。私の応答を聞き、そして私が他の何処にも応募していないことを知ると、彼は私の腕を取り、求人リストを掲載した記帳のある図書館に私を連れていきました。我々はその中から二つ三つ選び、彼は私にこれらの大学に応募の手紙を書き、推薦状を書いて下さる人をあと二人探すようにと言いました。もしあの時彼が私が確実に仕事探しをするように、あのように要領よく介入してくれなかったら、自分は一体どうなっていただろうかと考えると今でもぞっとします。3月初旬にカーネギー・メロン大学で面接を受け、 終身在職権(テニュア)へつながるポジションを提供され、それを受諾しました。学科主任の教授は、受諾する前に給料のついて尋ねるのが通例だと、私に教えてくれました。 6月、(小林教授の)「微分幾何の基礎、第二巻」の原稿のコピーを車のトランクに積み込み、私は家族を連れてピッツバーグヘ向かいました。この原稿を読んだ後で、新しい研究テーマを探そうと奮闘しました。小林教授とはこの年かなり定期的に交信しました。二三ヶ月経ったところで、学科の中で微分幾何に興味を持っているのは自分一人であり、孤独に感ずると彼に告げました。ポスト・ドク・フェローのポジションなら何処かにあるのではと彼に尋ねました。二三ヶ所に応募しましたが上手く行きませんでした。3月初め、セント・ルイスのワシントン大学から問い合わせがあり、ONR(海軍研究所)からの委託で「対称空間に関する大きな特別研究」に関連した一年のポスト・ドクのポジションに興味があれば、面接に来ないかと訊ねてきました。このポジションに関しは、小林教授が予め私の名前を先方に提案してくれていたのでした。ポスト・ドクの一年の終わりに、ワシントン大学は終身在職権へつながるポジションを提供してくれました。強力で活発な幾何の研究グループを持つこの学科は私にとって非常に魅力的でした。そのような訳で、私はセント・ルイスにとどまることになりました。 小林教授からの指導はこの後も更に続きました。 1971年の夏に私がバークレーで客員研究員のポジションを得るために努力して下さいました。そして、わたしが論文を書いている途中で行き詰まって嘆いたときに、「すべての場合を一度に説明しようとするな」と大変簡明な助言をくれました。またある時、会話中に、1963年に東北大学数学誌に発表した「正に締め付けられたケーラー多様体のトポロジー」と題する彼の論文を教えてくれました。この論文は、1970年代の私の論文の中で一番良く知られている論文「主ファイバー束の上でのアインシュタイン計量」の根底になっています。この論文は私が終身在職権(テニュア)を手に入れるのに多分役立ったと思います。彼のこのようなひそかな援助が何年も続いたのでした。現在私はワシントン大学の名誉教授であります。 このストーリーに関して私にとって明白なことは小林教授が、私のキャリア、そして私の人生に於いてさえ、その幾つかの決定的な時点で軌道からはずれないようにしてくれたことであります。バークレーで二三年毎にお互いに顔を交わしていたにも拘わらず、彼に対する私のこの認識を適切に伝えずに終わってしまったことを今になって遺憾に思っています。しかし彼の行為から判断して、彼が私の性格をよく知ってくれていたことは明からです。ですから、私に施して下さったたあらゆる行為での彼の親切さに私が感謝していたことは理解していて下さったと仮定するのは妥当であると思います。