「兄昭七を再発見」 小林久志
小林久志、(昭七の弟)
プリンストン大学名誉教授
落合先生、前田先生, 坪井先生その他の組織委員会の諸先生のご尽力により、22日からの四日間「小林昭七記念シンポジウム」を開催していただき、今夜は、このように、参加者百名を超える盛大な「小林昭七を偲ぶ会」を開催していただき心より御礼申し上げます。その上、私共小林、芦沢両家の親族を招待していただき大変恐縮に思います。親族を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。生前昭七が親しくお付き合いさせていただきました国内外の数学者の皆様にお目にかかる機会を頂き大変光栄に思います。兄の中学時代の同級生内藤昇先生には長野市から遥々お越しいただき、天国の兄も感激していることと思います。
さて昭七の一生を一ページにまとめますと次のようになります。
小林昭七 略暦
1932(昭和7) .1.4 | 山梨県甲府市生まれ |
1953(昭和28) | 東京大学数学科卒業 |
1953-1954 | パリ大学・ストラスブルク大学留学 |
1956(昭和31) | ワシントン大学にて博士号取得 |
1956-58 (昭和31-33) | プリンストン高等研究所研究員 |
1958-60 (昭和33-35) | マサチューセッツ工科大学研究員 |
1960-62 (昭和35-37) | ブリテイッシュ・コロンビア大学助教授 |
1962-63 (昭和37-38) | カリフォルニア大学バークレー校助教授 |
1963-66 (昭和38-41) | 副教授 |
1966-94(昭和41-平成6) | 教授 |
1994-2012(平成 6-24) | 名誉教授、大学院教授 |
2012(平成 24).8.29 | 心臓不全のため死去、 80 歳 |
私は去る二月、サンフランシスコの赤門会で「小林昭七の生涯と業績」という題目で講演させてただきましたが、本日は「昭七兄を再発見」という題でお話させていただきます。「再発見」と申します理由は、兄が若い頃どういう思いを抱いていたかを、私は兄が亡くなるまで、正しく把握していなかったと気づいたからであります。同じ両親に育てられながらも、長男と三男とでは幼い頃に住んだ世界がかくも違うものだったのかと認識したからであります。彼の略暦の2行目以降は熟知しておりましたが、最初の一行から2行目(即ち、甲府市での誕生から東大を卒業するまでの21年間)の彼の思いや成長の過程はよく知りませんでした。
生前、兄は「数学セミナー誌」などにいくつかの随筆を寄稿したようですが、私は彼の死後初めて読んだ次第です。兄は母に似て控え目な性格で、若い頃の思い出や体験談など、私達弟にも余り話しませんでした。彼の生存中にこれらの随筆を読んでいたら、もっと詳しい話を聞く機会があったのにと、残念に思います。兄は私が小学生の頃からロール・モデル(手本)であり、教師であり、身近で最も尊敬する人物、謂わば私のヒーローでありました。
昭七は昭和7年1月4日に山梨県甲府市にて誕生。両親は生後間もない昭七を連れて起業のために上京、杉並区の高円寺で布団店を開業し、私に物心がついた頃には、世田谷区経堂に店を移していました。昭七は子供の頃から算数が好きだったようですが、小学校5年か6年の時に扇形から作れる円錐の容積を計算する宿題に戸惑ったようです。
数学の第一歩
「私が自分なりに数学にめぐり会ったといえるのは、小学校の五年か六年の時に扇形が与えられて、それから作られる円錐の体積を求める宿題を出された時かと思う。家に帰って、いくら考えても円錐の高さがわからない。 斜辺と底辺が与えられた直角三角形の高さを求めることができればよいというところまできて、どうにもならなくなってしまった。とうとう仕方がないので紙に三角形を書いて高さをできるだけ正確に測ってすませてしまった。」
「翌日、先生があの問題は無理だからやらなくてよいと言われたのでほっとしたが、どうも気になるので、休み時間に尋ねたところ、三平方の定理(ピタゴラスの定理とは呼ばない時代だった)というのを教えて下さったのが印象に残っている。そういう定理に証明があるとか必要だとかいうことを知らないから、いろいろな直角三角形の辺を測っては定理を確かめ、関心した。数学の一歩は、いい定理に感激することだから、これが私にとっては第一歩だったのかも知れない」
(数学セミナー1973年5月号「きれいな定理に感劇する」より)
昭七は、昭和19年(1944年)に中学に入学。その当時の模様を次のように記しています。
昭和19年月千歳中学に入学
「私は戦争の終わりに近い頃、東京の千歳中学の一年生だった。千歳中学は軍事訓練(教練と呼んだ)に熱心で、新入生は軽井沢で一週間教練を受けた。4月の軽井沢は雪も残っていて、まだ寒かった。東京のどこかの大学が持っていた宿舎に泊まって雪道を行進するのだから、軽井沢の通常のイメージからは程遠いものだった。10人ずつ位の班に分かれて、班長は成績のよい4年生か5年生で、高等学校、そして大学へと進むつもりの人達だった。夜、宿舎に戻って班長と話しているうちに、中学を終えたら私も高等学校に進学しようと思うようになった。」
(この数学者に出会えてよかった:「中学時代の恩師:林宗男」より)
小学校時代に「三平方の定理」に感激したという昭七が、高等学校への進学を考えるようになったのが中学に入ってからだったと知り、私は驚きました。「昭七兄を再発見」の最初の例です。
昭和20年春、彼が中学二年生になった直後、私たち一家は長野県南佐久郡に疎開しそこで終戦を迎え、平賀村の親切な方々のお世話で昭和23年の秋まで南佐久で生活しました。野沢中学4年生の時に数学担当の林宗男先生との巡り合いが数学者昭七を育てる大きなステップになりました。
野沢中学で林宗男先生との出会い
「林先生は放課後ずいぶん色々と数学を教えてくださった。行列や行列式の話などは全く魔法のように感じられた。解析幾何の問題が簡単になりびっくりした。
ときどき学校の帰りに先生のお供をして本屋によることもあった。田舎の本屋だったが、竹内端三の関数論の本などが置いてあり、関数論という数学のあることも教えていただいた。空腹の連続といった時代だったが、先生から次々と新しいことを教えていただいたおかげで、楽しい毎日だった。」
(数学セミナー1973年5月号「きれいな定理に感動する」より)
お若い頃の故林宗男先生のポートレートを私の平賀小学校時代の友人柳沢正良様の計らいで、3週間ほど前に手に入れることが出来ました。
野沢中学から旧制一高を受験することになった経過に関しては、このように記しています。
「生後数ヶ月からずっと東京で育った私は、東京に戻りたかった。昭和23年頃になっても東京は未だ戦災から完全には復興しておらず、住宅、電気、何もかも不足していたので東京に仕事のある人、東京の高校、大学に入学した人でなければ戻れなかった。父も単身東京に戻り、また商売を始める準備をしていた。当時の大部分の親と同様に、私の両親も高等教育をうけていなかったので、子供の進学のことは先生に任せていた。幸い、私の両親は家業を長男に継がせようというような考えを持っていなかったので,林先生が私に一高を受験するように勧めて下さったときには、私は何も迷うことはなかった。」
(この数学者に出会えてよかった:「中学時代の恩師:林宗男」より)
林宗男先生の勧めにより、本人も一高を目指す自信を得たようであり、両親も長男が一高・東大を目指す能力を持っていることを初めて知ったようであります。戦争で何もかも失った当時の両親にとって、昭七は大きな誇りと心の支えであったと思います。
昭和23年(1948)4月 旧制一高に合格
昭和24年(1949)4月 新制東大に入学
数学科で矢野健太郎に師事する
フランス政府招聘留学試験を目指す
昭和23年に中学4年から一高に合格し、翌年、新制度の東京大学教養学部に入学、昭和26年理学部数学科に進学した昭七は指導教授の矢野健太郎先生(1912-1993)の勧めでフランス留学を目指すようになりました。当時私は中学生でしたが、昭七兄が東大の帰りにアテネ・フランセや日仏学院の夜学でフランス語の勉強をしていたことを記憶しています。
大学時代のガールフレンド?
この写真は、アテネ・フランセか日仏学院で知り合った女性だと思います。写真の裏にフランス語で、「元気に勉強してね」というような文が記されています。昨年九月の追悼式でのスピーチで私は「東大生だった頃の昭七にはガール・フレンドなどはいなかった」などと述べてしまいましたが、これは私の認識不足で、この点でも昭七兄を再発見しました。
フランス政府招聘留学試験は難関だから、練習のためにと、学部の4年生の時に応募したら見事合格、本人も矢野先生も驚いたらしい。
左の写真は昭七がフランスに発つ際に、私達一家と甲府から来た親族と一緒に撮った写真です。右は横浜港から出発する昭七(21歳)です。私達の家族や親族には花束を持ってくるような気が利いた者はおりませんでしたから、この花束はガール・フレンドからのものだったのではないでしょうか。フランスに一年留学したあと、兄はシアトルのワシントン大学に移りそこで、博士号を2年足らずで取得しました。後年私にプリンストン大学留学を勧めた兄が何故プリンストンやハーバードに留学しなかったのか疑問に思っていましたが、その辺の事情をこう記しています。
「東大を卒業した年、1953年の9月から翌年の夏まで、私はフランス政府給費留学生として、パリとストラスブルクで勉強したが、その時、すでに米国でPh.D.を得られて一年フランスに微分幾何の研究にきておられた野水克己氏に「まっすぐ日本に帰る代わりに、アメリカに留学したらどうか」とそそのかされた。ストラスブルクで得た結果を博士論文にまとめるにはもう一年くらいの時間が必要だったので、その気になり高次元ガウス・ボンネの定理を初めて証明したアレンデルファー教授のいるシアトルのワシントン大学と、同じ定理のもっとよい証明を見付けたチャーン教授のいるシカゴ大学に、大学院入学および奨学金について問い合わせると同時に、東京の矢野健太郎先生やストラスブルクのエールスマン先生に推薦状をお願いした。シカゴの主任教授の秘書から入学申込書が来たのとほとんど同時にシアトルのアレンデルファー教授(当時、教室主任)からいきなり助手に採用するという手紙が来たので、何も考えず、それにとびついた。」
(「わが師、わが友、わが数学;アメリカ留学の頃」数学セミナー、1982年7月号より)
これは矢野健太郎先生とアレンデルファー教授の1961年当時の写真です。
最後の写真は1953年に昭七が25歳で芦沢幸子さんと結婚した時の写真です。こんなにハンサムな兄貴は後にも先にも見たことがない。これまた、「昭七兄を再発見」です。
以上幼少時代から結婚するまでの昭七の生い立ちを辿りますと、高校進学を考える動機を与えてくれた千歳中学の上級生、昭七の才能を見つけ個人的に指導して下さった野沢中学の林宗男先生、フランス留学を勧めて下さった矢野健太郎先生、昭七にアメリカ留学をそそのかして下さった野水克己氏、助手として採用して下さったワシントン大学アレンデルファー教授、そして本日ご出席下さった皆様との素晴らしい出会いがその後55年余り数学者として活躍した昭七のエネルギーの源泉であったと思います。そして彼は素晴らしい伴侶、家族に恵まれ、実り多き人生を送りました。
よき先輩、よき師、そしてよき友との出会いは私達の成長にとってかけがえのないものです。若き頃の兄の思いや成長の経過を知ることにより、明日を担う若者に対して私達が「よき先輩、よき師」になることの大切さを改めて認識します。
前田先生から与えられた時間を超過してしまいました。ご静聴ありがとうございました。
最後になりますが、昭七に関する記録やニュースを収録するために、「小林昭七記念ウェブサイト」を立ち上げました。是非 www.jp.ShoshichiKobayashi.com www.ShoshichiKobayashi.com をご覧くださり、お名前とメールアドレスを登録してください。「昭七に関するニューズレター」を電子メールでお届けいたします。