「小林昭七教授を想う」 シン・トウン ヤウ

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ShingTungYau丘 成桐 (シン・トウン ヤウ)教授
ハーバード大学

 

この小林先生記念会議に私を招待して下さった落合教授に感謝いたします。

昨年、小林教授が亡くなられたを知った時は大変驚きました。先生はまだお若くエネルギーに溢れておられると思っていました。東京からバークレーに向かうご旅行中に機内で安らかに亡くなられた旨をH. Wu教授から聞きました。即座に私はバークレーで学生時代初めて小林先生にお会いしたときの笑顔を思い想い起しました。私は小林先生と落合先生が担当された微分幾何のセミナーから多くのことを学びました、今回の日本訪問中に落合先生から知り得た情報で感動した事が一つあります。私がバークレーの大学院応募した年は数学科への入学選考委員会の委員長は小林先生であったそうです。ドナルド・サラソン教授とS.S. チャーン教授が私のバークレーへの入学許可に大きく関与されたことは、長年知っておりましたが、小林教授も大変重要な役割を持たれていたことは知りせんでした。そして小林先生はこのことを生涯私には秘密にしておられました。落合先生によりますと、小林先生は私の応募に関し、バークレーは出来得る最善の努力をすべきだと強力に推して下さったそうです。私に大変高名なIBMフェローシップを下さったのですから正にその通りでした。当時米国人の学生がもらったフェローシップは通常2,400ドル位でしたが、私はそれを上回る3,000ドルを頂きました。小林先生は私をバークレーに入学させたことを、ご自身の大きな手柄の一つだと落合先生に自慢されたとの事です。先生のご親切さに心より感謝致しております。

私がバークレーに応募したのは香港で学部三年の時で、香港中国大学からまだ学士号は得ていませんでした。香港のサラフ教授の勧めで、バークレーの大学院のみに応募しました。バークレーへの入学は私の人生、数学者としてのキャリアに決定的なものでした。このフェローシップは私にとっても、私の家族にとっても大変有難いものでした。私の父はずっと前に亡くなり、私の家は大変貧乏でした。頂いたIBMフェローシップの半分を家に仕送りすることにより、私の家族を経済的に助けることができました。更に重要なことは、バークレーで現代数学を勉強したことが、その後の私の数学研究の基礎になったことです。

香港にいた頃は関数解析に興味を持っていました。バークレーでいくつかの科目を取ったり、聴講してからは幾何学の美しさに気づきました。小林先生と落合先生が担当されたセミナーは特に助けになりました。セミナーを理解するためにヒルツェブルク著「代数幾何学のおけるトポロジー的手法」を勉強するために多くの時間を費やしました。これは私にとって重要な転機点でした。チャーン教授に指導教授になって頂くようお願いしておりましたが、先生は私が大学院一年の年はサバテイカル休暇をとっておられました。ですから、幾何とトポロジーの基礎を学んだのは小林教授の講義や、ブレーン・ローソンとエド・スパニエーの講義からでした。

1970年の春、小林教授は彼の有名な著書「双曲多様体」を書き上げたばかりでした。出版される前にその原稿一式を私に下さったのには大変感激致しました。大変すっきりと書かれた本で、あの重要なシュワルツ=ピック補助定理を私はこの本から学びました。この補助定理に関してあれこれと思いを巡らせ、実数上で類似した結果を勾配評価の形として見出しました。この手法は偏微分方程式の分野における私の殆どの仕事に大きな影響を与えました。リ=ヤウの不等式はこの評価の放物版を理解することから得られました。カラビ予想における私の2階の評価もこの補助定理から示唆されたものです。私は小林教授と彼の学生アイゼンマンが提唱した内在的測度を一般化する努力をし、最後には、それを双有理不変測度に拡張することができました。

1970年から1971年にかけて、小林・落合両教授は、正の双断面局率を持つコンパクトなケーラー多様体は複素投影空間と双正則同値な関係にあるというフランケル予想を解明しようとしていました。二つの重要な手法がつかわれました。一つはビショップとゴールドバーグの消滅定理であり、2次のベッチ数は1であることを証明するのに使われました。もう一つは最低次の有理曲線が存在するということであり、これはヒルツェブルクと小平の仕事に遡ります。小林-落合がリーマン-ロッホ公式と消滅定理を応用したことに、私は深い感銘を覚えました。1978年私はフランケル予想と小林-落合のこれらのアイデアをシウ氏に伝え、安定的極小曲面の為の第2変分公式を取り扱う新しい方法を開拓する研究を彼と一緒に始めました。 そしてサックス-ウーレンベックによって開拓された極小球面の理論を応用することにより、最低次の有理曲線の存在を証明しました。我々はフランケル予想を証明することに成功しましたが、森氏は、より一般的なハーツホーン予想を証明しました。極小曲面を使って最小次の有理曲線を作るというこのアイデアはグロモフによってシンプレクテイック幾何における擬正則曲線を開拓するのに使われました。

1982年に私がフィールズ賞を受賞した後、私の仕事を日本語で紹介する記事をご親切にも小林先生が書いて下さったことも付け加えたいと思います。先生と私は、チャーン数の不等式に関するボゴモロフの仕事を知って以来、幾何学における多くのアイデア、特に束の安定性に関するアイデア、を共有致しました。

数学でのお付き合いのみならず、小林先生は私を学生として、友人として大変親切に接して下さいました。1978年にヘルシンキでの国際数学者会議に出席する前にボンを訪問した際には、先生のお宅に短期間滞在させていただきました。

その頃小林先生はバークレーの学科主任をされておりました。彼のリーダーシップは、同僚達により「傑出した」そして「英雄的」であったと語られています。彼の笑顔と外交的手腕によって、彼は数学科の望みの多くを理学部長から手に入れました。世界中からの数学科への訪問者、特にキャリアを始めたばかりの若い人たちに対する彼の暖かい持成しは遍く知られています。彼の数学と数学者コミューニテイへの貢献を、私たちはこれからもずーと忘れないでしょう。

(翻訳文責・小林久志)