「指導教授としての小林昭七氏」 ゲアリ・ジャンセン

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GaryJensenゲアリ・ジャンセン
セントルイスのワシントン大学数学科名誉教授
私にとって小林昭七教授は理想的な論文指導教官であり、メンター(よき助言者)でありました。彼は私のキャリアの数多くの段階で極めて重要な役割を演じてくれました。彼の助けや指導がなかったら、私は数学の教授には決してなれなかっただろうと申しても間違いないでしょう。以下私のストーリーを紹介します。

1964年10月に(博士号への)資格試験を終えてからも、私は1964-65年度の残りの時期を更にコースを取ることに時間を費し、さて次に何をしようかと思案してました。 当時の私には、「博士論文を書く」という事がどういう事なのか殆ど見当がつきませんでした。春学期の末に卒業する予定の友人が私に「君は何をしているのかね」と尋ね、私の返事に対し「それとは違う分野の数学を目指したらどうかな」と提言してくれました。そして彼は論文の指導教授をすぐ見つけるようにと私に強く勧めました。当時、指導教授を見つけるということは、私にとっても他の多くの学生にとっても非常に困難なステップでした。幸いにも、私は既に小林教授の表現論のコースを取っており、彼に実際に会って話してみようかなという印象を持っていました。私の指導教官になって下さいと頼むことに不安はありませんでした。その時は彼は即座には返答を下さらず、野水氏と共著で出版したばかりの「微分幾何の基礎、第一巻」を読んで夏を過ごしてみてはどうかと言われました。こうして私の生涯を通じての微分幾何への愛が始まったのです。

小林教授は私に、本を読むだけでなく週一度彼のオフィスに出向き、読んだ内容について話すようにせよと言われました。しかし、どうしたものか、私は、彼の意図する所は、私が彼に質問があるか、或いは気の利いたコメントが頭に浮かんだ時にだけ彼の所へ赴くけばよいのだろうと解釈しました。2週間も経たぬうちに小林教授はこの点での私の誤解をはっきりと指摘しました。それで私は本の第一ページから終わりまで懸命に読み始め、規則的に話に行くようになりました。我々の会話は決して長くはありませんでした。あれが彼の流儀だったのか、あるいは私が詳細な議論から知識を吸収するのが不得手である事を彼がすばやく見極めたのか、今でも定かでありません。しかし一番肝心なことは、その場その場の事情に応じて、私を時には優しく、時には強く突くことを、彼がよく心得ておられたことです。

秋学期の初めになって彼は私の指導教授になって下さることを承諾してくれました、しかし私はどんな問題に取り組みたいのか、研究をするということは何かということすら、丸っきり分かっていませんでした。その頃京都で開催されたコンファレンスの論文集の編集をされた彼とジェームス・イールスが収録した問題のリストを私に手渡し、この中から二つか三つ位、何か面白い問題があるだろうと示唆してくれました。一週間後、イールスとサンプソンが提唱した問題、即ち「単連結なコンパクトな、非負の曲率を持つリーマン空間にリッチ平行計量は存在し得るか?」を検討してみることに我々は同意しました。その学期中私は数々の論文を読みましが、全然進みませんでした。意を決して小林教授に自分は全然進歩してないし、実際どこから手をつけてこの問題を解いたらよいのか、全く見当がつかないと言いましたら、彼の返答は 「先ず4次元で等質の場合を検討してみたらどうかね」という単純なものでしたが、大いに役立ちました。このアイデアが一年もの間、自分で思いつかなかったとは、今思い出しても恥ずかしく思います。この助言に加え、4次元等質空間に関する石原の論文を読むよう指示して下さいました。かくして、やっとのことで、二三週間で内容を理解出来、更に自分の問題にも応用できるような論文に初めて出くわしたのです。

60年代半ばのバークレーの大学院は素晴らしい所でした。1967年秋学期の初めのミーテイングで、小林教授は静かな口調で、今年が私の最終学年だと言われました。「しかし、私には博士論文にまとめるだけの充分の結果がありません」と(確認をとるために)私は答えました。「そうだ」と彼は私に同意しました、しかし「これが君の最後の学年だよ」と再度言われた。私は彼の真意をやっと理解しました。それは私に強烈な動機を与えたメッセージでした。毎週の彼とのミーテイングで私は部分的な結果の寄せ集めを報告することを始めました。最初は壁にぶつかるような感じでしたが、猛攻撃で努力するにつれ、徐々に解明でき始めました。そして12月末までには、等質な4次元のアインシュタイン空間をすべて見つけることができました。

その一方で、小林教授は私の翌年の就職の件を課題として取り上げました。不思議なことに、この点について私は曖昧でした。それは明らかに、潜在意識下で、残りの人生もずっと大学院生でいたいという願望があったからです。彼が東部のある大学の何人かの数学者を紹介してくれましたので、私は彼らの学科に就職したいと申し出ましたが、先方から何の音沙汰もなく数週間が過ぎました。私はそのことを余り気にもしませんでしたが、ある日小林教授は私に「何か返事をもらったか?」と心配気に訊ねました。私の応答を聞き、そして私が他の何処にも応募していないことを知ると、彼は私の腕を取り、求人リストを掲載した記帳のある図書館に私を連れていきました。我々はその中から二つ三つ選び、彼は私にこれらの大学に応募の手紙を書き、推薦状を書いて下さる人をあと二人探すようにと言いました。もしあの時彼が私が確実に仕事探しをするように、あのように要領よく介入してくれなかったら、自分は一体どうなっていただろうかと考えると今でもぞっとします。3月初旬にカーネギー・メロン大学で面接を受け、 終身在職権(テニュア)へつながるポジションを提供され、それを受諾しました。学科主任の教授は、受諾する前に給料のついて尋ねるのが通例だと、私に教えてくれました。

6月、(小林教授の)「微分幾何の基礎、第二巻」の原稿のコピーを車のトランクに積み込み、私は家族を連れてピッツバーグヘ向かいました。この原稿を読んだ後で、新しい研究テーマを探そうと奮闘しました。小林教授とはこの年かなり定期的に交信しました。二三ヶ月経ったところで、学科の中で微分幾何に興味を持っているのは自分一人であり、孤独に感ずると彼に告げました。ポスト・ドク・フェローのポジションなら何処かにあるのではと彼に尋ねました。二三ヶ所に応募しましたが上手く行きませんでした。3月初め、セント・ルイスのワシントン大学から問い合わせがあり、ONR(海軍研究所)からの委託で「対称空間に関する大きな特別研究」に関連した一年のポスト・ドクのポジションに興味があれば、面接に来ないかと訊ねてきました。このポジションに関しは、小林教授が予め私の名前を先方に提案してくれていたのでした。ポスト・ドクの一年の終わりに、ワシントン大学は終身在職権へつながるポジションを提供してくれました。強力で活発な幾何の研究グループを持つこの学科は私にとって非常に魅力的でした。そのような訳で、私はセント・ルイスにとどまることになりました。

小林教授からの指導はこの後も更に続きました。 1971年の夏に私がバークレーで客員研究員のポジションを得るために努力して下さいました。そして、わたしが論文を書いている途中で行き詰まって嘆いたときに、「すべての場合を一度に説明しようとするな」と大変簡明な助言をくれました。またある時、会話中に、1963年に東北大学数学誌に発表した「正に締め付けられたケーラー多様体のトポロジー」と題する彼の論文を教えてくれました。この論文は、1970年代の私の論文の中で一番良く知られている論文「主ファイバー束の上でのアインシュタイン計量」の根底になっています。この論文は私が終身在職権(テニュア)を手に入れるのに多分役立ったと思います。彼のこのようなひそかな援助が何年も続いたのでした。現在私はワシントン大学の名誉教授であります。

このストーリーに関して私にとって明白なことは小林教授が、私のキャリア、そして私の人生に於いてさえ、その幾つかの決定的な時点で軌道からはずれないようにしてくれたことであります。バークレーで二三年毎にお互いに顔を交わしていたにも拘わらず、彼に対する私のこの認識を適切に伝えずに終わってしまったことを今になって遺憾に思っています。しかし彼の行為から判断して、彼が私の性格をよく知ってくれていたことは明からです。ですから、私に施して下さったたあらゆる行為での彼の親切さに私が感謝していたことは理解していて下さったと仮定するのは妥当であると思います。